blue in green

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このブログ「人生の午後三時」も、いまでも一定のアクセスがあるみたいなので、一応メインのブログ二つを紹介しておく。いま更新を続けているのは上の「blue in green」で、下の「おもに読書記録」のほうは、更新は停止していて、今後も更新することはないだろうと思う。

詩情、ポエジー

よい文章から離れていると、精神に潤いがなくなる。言語感覚は退化する。いま、くそ久し振りにニーチェツァラトゥストラはこう言った』(岩波文庫)を何ページか読んだ。これはなにが書いてあるのか、ほとんどよくわかっていないんだけど、とにかく文章が詩的だと思うんだな。よい文章だということはわかる。たまに、すごく印象に残る箇所がある。やはり、文章は詩的なものだけ読んでいたいな。

 

この前、先週だったか、高校時代の人たち数人と会っていたとき、ふと「詩のない人生になんの意味があるのだろう」と思った。詩というのは、詩情、ポエジーのことだ。

 

健康な人だって、そんなことはわかっている。なぜなら、健康な人は、ぼくと話したとしても、通じ合わなさを感じるだろうし、それは詩の欠如によるものだからだ。「あいだ」と言ってもよい。

 

健康な人も、「詩のない人生になんの意味があるのだろう」というという問いに、「なんの意味もない」とこたえるだろう。そんなのは、誰にとっても自明のことであるはずだ。健康な人たちは、ぼくのような人を指して「廃人」というだろう。

 

「なんの意味もない」と言い放てるのは、自分とは無関係で、他人事だからだ。想像する必要もない、なぜなら自分とは無関係で、自分がそのような「廃人」になることは想定していないからだ。しかし、実際にそうした「廃人」になった人にとっては、「なんの意味もない」と言い放つことはできない、なぜなら、誰でも、自分の生きているこの人生に、なんらかの意味を見いだしたいと思っているからだ。積極的に意味を見いださなければ、生きつづけることは困難なことだと思う。

 

そういうわけで、ぼくは「詩のない人生になんの意味があるのだろう」という疑問を抱きはするが、あくまでも「詩のない」人生に意味がないのであって、詩のない人生のなかにも、なにか価値を見出さなければならない、少なくとも、価値を見出そうと努めなければならない、と思っている。人生、詩がすべてじゃないぞ、というふうに発想の転換をする。その一方で、詩を大切に思いながら、詩情がまた戻ってくるのを期待する。

 

(a)詩がすべてではない。詩のない人生にもなにかしら価値があるのではないか、とかんがえる。

(b)あくまでも、詩がすべてであるから、詩情が少しでも戻ってくるのを期待し、日々を過ごす。

 

詩情が少しでも戻ってくるのを期待しながら、かつ、詩のない人生のなかにも価値を見出そうと努める。これは、ほとんど軽業、曲芸だ。

 

問題点:知能がぶっこわれた。感情がほとんどなくなった。体力がなくなった。気力がなくなった。詩がわからなくなった。耳が悪くなった。楽器ができなくなった。離人症が悪化した。

 

このへんが、おもな問題点。とくに、社会復帰を目指すにあたっては、主体性のなさがもっとも問題になる。

 

悪い医者の特徴:健康者のなかから、無理矢理「病気」を見つけ出す。そして不必要な「治療」を行う。

 

作業にあたっては、記憶力のなさを補うために、メモを積極的に取る。

40回読む

図書館に本を返しに行き、ついでに岩波ジュニア新書のコーナーを見ていたら、桝太一というテレビアナウンサーの本があったので、ちょっと立ち読みしてみた。彼は村上春樹が好きで、中学の卒論で『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を取り上げたらしい。また、本は40回読むことが大切、というようなことを言っていたのが印象に残っている。ぼくは、本は4回くらい読めばじゅうぶんだと思っていたので、びっくりした。そうか、40回読むことが大切なのか、と思った。

ギターの練習

今日は、『ソロ・ギター・スペシャル・アレンジ』という教本を見て、When you wish upon a star と、There will never be another you を練習しています。ソロ・ギターの教本なので、ギター一本で音楽になるのです。二時間くらい練習したと思うのですが、少し上達しました。ぼくはいちおう中学一年のころから大学二年ごろまで、エレキギターをやっていたのですが、ロックギター中心にやっていて、ジャズはやったことがないので、複雑なコードを押さえるのに慣れていないため、なかなか苦労します。

 

ちなみに、中学のころは、グレイ、ルナシー、イエロー・モンキー、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、クイーン、エリック・クラプトンメタリカオジー・オズボーン、などの曲を練習していました。高校のころは、ハロウィン、アイアン・メイデン、レインボー、ジューダス・プリースト、アーク・エネミー、オジー・オズボーンなどの曲を練習していました。高校二年の夏に受験勉強に専念するため、ギターは押し入れにしまい、大学に入ってからまた再開しました。大学生のころは、スクエア、渡辺香津美、スタッフ、ブレッカー・ブラザーズラリー・カールトンパット・メセニー坂本龍一ジョン・マクラフリンインコグニートマイケル・ブレッカーなどの曲をサークルで演奏しました。それで、大学二年の終わりごろに、エレキギターをやめ、ジャズドラムを始めました。それで、ドラムで、サークルで演奏したり、ジャズの店のセッションで演奏したりしていました。大学六年のときに、統合失調症を発症し、演奏ができなくなり、大学もやめ、いまに至ります。

ビリー・テイラー

先日、アンドリュー・ヒルが、ぼくのいちばん気に入っているピアニストの一人だと書いたけど、ビリー・テイラーもいちばん好きなピアニストの一人。この二人、スタイルがまったく違うけれども。真逆と言っていい。『ウェス・モンゴメリー・アンド・ザ・ビリー・テイラー・トリオ』は、ぼくにとって人生の一枚。これは名盤と言っていいと思う。なぜか、アマゾンにレビューがない。

ピンボール

とか言っている先から、村上春樹の二作目の「ピンボール」が読みたくなった。この小説は二回しか読み通していない。

必要な本

やるべきことから逃げていてはだめだ。やるべきこととは、西田幾多郎の本、エックハルトなどの本を読むことだ。ほんとうに必要な本を読まなければ。あまり読書に向かう気力がないので、量よりも質。本分を忘れてはいけない。

働くだけ

いまはデイケアに通い、いわゆる社会復帰を目指している。障害者枠での仕事。でも、社会復帰するには膨大なエネルギーと時間を取られる。社会復帰できたとしても、たぶん働くだけになると思う。家に帰っても、仕事のための勉強などしないといけないだろうし、おそろしく疲れやすく、睡眠時間も長くなるので、好きなことをする余裕はほとんどなくなるだろう。まあ、好きなこと、楽しいことがないんだけれど。音楽を聴いて、かすかに心地よくなることがたまにあるくらい、あと、本を読んでおもしろいと感じることがたまにあるくらい。

記憶力と「あいだ」の感覚

記憶力ない。頭がクルクルパーになっている。そのへんの小学生にも劣る知能。知能というのもあるし、エラン・ヴィタールのもんだいだな。生命的なもの。奥からわきあがってくるようなもの。解体症状。ぼくの普段話している言葉はとてもひどくて、いわゆる言葉のサラダにちかい。と思っている。

 

言葉が崩れているのをなんとかリハビリしようと思って、本はなるべくよむようにしているけど、ああそうだ、ブログを書くこともリハビリの一環だ、まったくリハビリの用を果たしていないようにおもう。

 

デイケアでふだん作業をしていても、頭がぶっこわれているので、ぜんぜん作業の流れをおぼえられない。これからは、メモを取りまくることにする。そうするしかない。ほかの通所者は、メモを取らないでもおぼえられるらしいけど、ぼくのばあいはメモを取らないとだめだ、メモを取ることについては消極的であるとは言っていられない、そうだ、メモを取ることにふみきろう。

 

もともとの、病気になる前の知能水準はほとんど問題にならないことに、あらためて気づいた。病気の程度によるのだ。もともとそれなりに高い知能水準にあっても、病気であたまがぶっこわれれば、もうそいつはクルクルパーだ。そのへんの小学生にも劣る。健康者って、あるいは病気であたまがぶっこわれていない人って、すごい知能を持っているよ。それがふつうなんだけど、ぼくからみると、天才だよ。なんてったって、言葉が流暢だもんな。言葉が流暢だということは、現実認識が流暢で、流れによどみ、つっかえがないということだ。この流れをエラン・ヴィタールというんじゃなかったっけ、ごめん、エラン・ヴィタールという言葉のいみを取り違えているかもしれない。アンリ・ベルクソンのことばだったよね、たしか。たぶん、そんなに外れてはいないだろう。生命的な流れ、つまり、一部の統合失調症患者が失っているところの、自然さ、奥からわきだしてくるような、生命的なもの。

 

ようするに、ぼくは、自分は流暢さ、自然さを失っていて、自分の現実認識はちぐはぐで見当違いであると感じていて、そうなると、行動もちぐはぐで見当違いになる。木村敏の言い方にしたがえば、「あいだ」の障害だ、点ではない、点と点のあいだの線の問題だろう。間(ま)と言ってもいい、これが機能していないのだ。これを、ミンコフスキーは「現実との生ける接触の喪失」と言っている。ミンコフスキーは、ベルグソンのエラン・ヴィタールということばを使って、統合失調症のこうした問題を説明している。エラン・ヴィタールの問題だ。そんなわけで、ぼくはエラン・ヴィタールということばは、自然な、奥からわきでてくるような、生命的な流れを指している、というふうに理解している。

 

たいせつなのは、知能水準ではない、こうしたエラン・ヴィタール的なもの、つまり「あいだ」なのだ。楽器の演奏を、とくに即興演奏をしたことがある人なら、たいせつなのは「あいだ」、あるいは間(ま)であるということはよくわかることだろう。知能などいくらあっても、こうした「あいだ」の感覚がぶっこわれていれば、知能は知能として機能しない、知能は「あいだ」と不可分の関係にあり、「あいだ」のないところに知能はない。「あいだ」の感覚がぶっこわれていても、知能は知能としての役割を果たすのだろうか、果たさないとすれば、それはなぜなのか、知能と「あいだ」の感覚とのあいだにはどのような関係があるのだろうか! なぜこれらは密接不可分な関係にあるのか、それを追求したのが、木村敏だったのではないか。というか、これが木村敏の取り上げてきたテーマのひとつだったとおもう。まちがっているかな。いや、そんなに外れてはいないだろう。

 

たいせつなの知能水準ではなく、「あいだ」なのだといっても、それでは救いがないようにもおもう。まあ、じっさいに救いがないのだから仕方がないだろう。嘘を言っても仕方あるまい。それでも、生きていかなければならないことは当然だ。木村敏の精神病理学で、病人を救うことはできないのかもしれない。しかし、少なくとも、病人がどのような状況に置かれているのかを理解する助けにはなるだろう。

読んだ、音楽との向き合い方

今日は通院だった。多和田葉子『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』(岩波現代文庫)を読み終えた。それなりにおもしろかったけど、岩波現代文庫にしては、ちょっと内容が薄いんじゃないかと思った。エッセイだから、こんなもんなのかな。解説を書いていたリービ英雄は、この本の内容を絶賛していて、三回読んだと言っていたけれど。あと、ぼくは外国語を勉強することの意味について、ヒントが得られるんじゃないかと期待してこの本を手に取ったのだけど、あまりヒントは得られなかった。

 

村上春樹は、クラシック音楽を理解するこつは、気に入った曲、演奏を見つけたら、暗記するくらいに何回も聴きこむことだ、と言っていた。ぼくも、初心を思い出したというか、元気づけられる気がした。高校のときに出会った、『ゲッツ・ジルベルト』とか、大学のときに出会ったデイブ・ブルーベックの『デイブ・ディグス・ディズニー』とか、チック・コリアの『カモメ』とかは、ほとんど覚えている。聴いている音楽の幅を広げたいという邪念?にとらわれて、あれもこれも聴いて、けっきょく表面的にしか音楽を聴いていないという事態に陥りがちなので、やはり音楽は繰り返し聴くことが大切だということを再確認した。また、気に入った音楽を何回も聴くのが大切というのは、目からうろこだった。ぼくは理解できない音楽ばっかり聴いていることが多かった。少しでも、自分の感覚の限界を広げようとして。わかる音楽ばかり聴いていてもしょうがない、と思っていた。けれど、まったくチンプンカンプンの音楽を聴いていても、確かにあまり意味はないかもしれないけど、わからなさがとても心地いい、という音楽は、いい音楽だと思う。

 

ところで、最近は、バド・パウエルの『アメイジング 1』の「ウェイル」、「バウンシング・ウィズ・バド」の二曲を、とくによく聴いている。この二曲もほとんどのパートを覚えている。

 

いちおうことわっておくと、ぼくは統合失調症になってから、音楽をまともに聴くこともできなくなっている。2010年の2月10日に発症して、その日を境に、感情もほとんど動かなくなり、耳も悪くなった。それまで、アイコの音楽と向き合っていたけど、アイコの音楽を聴くことはできなくなった。発症からもう五年くらい経つけど、いまだに聴けないし、よさがわからなくなってしまった。いまも、音楽を聴いて楽しいと感じることはほとんどない。感動することもない。たまに、かすかに心地いいと感じることがある。