日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

言語化は大事

言語機能って、言葉って大事だと思う。言葉だとか理屈に頼ってはいけないというような意見も世の中には存在する。では何に頼るのか、それは直感だとか、勘だとか、感情だとか、そういうものなのだと。

 

ぼくの場合、自分が何を好きなのかとか、何に興味があるのか、それを言語化するのに失敗している感じがあるので、言葉は大切だと思う。

 

ミンコフスキー『精神分裂病』に出てくるある患者は、私は生命との接触を失った、その欠如を私は理知によって補っている、というようなことを言っている。ぼくはこの患者にとても共感するのだけど、でも理知によって補うといっても、補いきれるものなのだろうか?

 

ぼくが生命との接触を失ってしまった、といっていることは、勘違いなり妄想なのだろうか?それは違うと思う。そもそも、ぼくが生命との接触を失ったという考えに至った原因は、ジャズドラムの即興演奏ができなくなったことにあるのだから。ジャズドラムができなくなったのは、なぜなのか?それを探るために、ぼくは木村敏などを読んで勉強してきたのだと思う。きわめて実際的で具体的な動機だと思う。

 

話は違うけど、カントは面白い気がしてきた。いままでまったく触れたことがなくて、なんとなく自分には縁がないのではないかと思っていたけど、この前『純粋理性批判』を最初から少し読んだら、よかった。というか、カントを読まないで西田幾多郎を読んでいたのは無理があったのではないかと思った。

おもに読書について、雑感

ここ半年、いや一年くらいか、精神病理学、心理学、哲学、宗教といったジャンルの本をほとんど読んでいない。つまり、小説しか読んでいない。どのような小説かというと、ドストエフスキー大江健三郎村上春樹平野啓一郎といったところ。去年は『カラマーゾフの兄弟』を二回通読した。いまも『カラマーゾフの兄弟』を読んでいる。本を読んでいるといっても、能力的に多くは読めない。一日に100ページも読めば上出来なほうだ。

 

さっき久し振りに木村敏の『あいだ』という本を引っ張り出して、読みだした。やはりこれはとんでもなく面白いと思うし、この本を読むのはぼくにとって何の苦もないし、ある意味とても簡単なことだと思った。完全に理解できているとは思わないし、木村敏の思想のごく一部分しか理解していないのかもしれない。でも、文章の平易さは問題ではないのだと思った。木村敏の文章は一般的に難しいとされているけど、内容の難しさをはるかに上回る面白さがあるから、ぼくは木村敏の本を読むことに苦を感じない。

 

それでも、木村敏から離れてしまうのはなぜだろうか。これを読んでいて、意味があるのだろうかという疑問が頭に浮かぶことがある。これは本だけに限らず、ギターの練習についてもいえることだ。これをしていて意味があるのだろうか、と思うことがある。本の選択を間違えているのではないか?ギターは趣味から除外するべきではないのか?

 

西田幾多郎を読んでいて、これを読んでいて意味があるのだろうかと思うことがある。鈴木大拙を読んでいて、そう思うことがある。とても面白いと思う時もある。木村敏にしろ、西田幾多郎鈴木大拙にしろ、とても面白いと思う一方で、「これを読んでいて意味があるのだろうか」という疑問が浮かぶ時点で、ぼくはこれらを大して面白いと感じていないということになるのではないか?村上春樹にしてもそうだ。面白いと思う。最後まで読み通すことは苦ではない。でも、疑問が浮かぶことがある、ぼくが読みたい本はこれなのだろうか?もっと読むべき本が他にあるのではないか?もっと他にやるべきことがあるのではないか?

 

村上春樹、ということで思い出した。村上春樹国境の南、太陽の西』という小説で、主人公は自問自答している、いまの自分の人生は上出来かもしれない、しかしこれが本当に自分の望んでいる人生なのか、と。

 

ここ一年くらい、小説だけを読んでいる。去年の四月から手帳に日記とか読書記録を書いているから、何の本を読んだのかも一目瞭然になっている。去年の四月から、いまに至るまで、小説以外の本は確か三冊くらいしか通読していない。聖書はたまに開くけど。ちょうど、去年の四月に鈴木大拙『禅』ちくま文庫、を通読している。三回目くらいの通読だったけど、とても鮮烈な印象があった。線を引っ張りまくり、ページの角を折りまくった。

 

ぼくは数年間、西田幾多郎鈴木大拙に執着していた。両方の岩波の全集を全巻揃えていて、これらをいずれは読破したいと思いながらも、なかなか読み進められないことに落ち着かなさを感じていた。いまから一年くらい前に、西田幾多郎にしても鈴木大拙にしても、文庫で出ているやつだけ読めばいいのではないかと思って、全集全巻はクローゼットの中にしまった。

 

木村敏西田幾多郎鈴木大拙は、ぼくにとって思想系著者の三強といっていいのだろう。木村敏については、主要な著作は十五冊くらい読んだので、自分は木村敏をまったく読んでいないというふうに不満を感じることはない。鈴木大拙にしても、主要な著作を八冊くらいは読んだので、それなりに理解していると思っている。けれども、西田幾多郎については、『善の研究』『思索と体験』の二冊しか読んでいない。あと全集から講演の文章をいくらか読んだだけ。エックハルトとかクザーヌスについての内容だった。西田幾多郎については、やはり前々から興味があるのに、ちゃんと読んでいないということに落ち着かなさを感じているのかもしれない。

 

ぼくはいま小説しか読んでいないけど、確かに小説も面白い。でも、面白いという感じは相対的なもので、もっと面白いものがあるならば、そっちを取るべきだろう。ぼくは本を選ぶとき、小説と、思想系、というふうに二つにわけて考えている。いまは小説中心で行こう、とかそういう二分法というかスプリッティングみたいなのが起こっている。

 

木村敏臨床哲学対話1と2、現代思想の総特集木村敏を発売後すぐに買って読んだのはいつのことだったか?もう二年くらい経っているのではないか。一時期、禁止ということを重視していた。つまり何かしら禁止をしなければ、何か目標を達成することはできないのではないか。例えば、本を一冊読み通す場合、一冊に集中することを阻む行動を、みずから禁止するわけだ。並行読みは禁止するべきかいなか、これも前から悩まされている問題の一つだ。以前は、思想系の本を中心に読もう、とか、自分に何らかの方向づけを与えていた。いまは無方向的に放埓に、適当に本を読んだり読まなかったり、ギターを弾いたり弾かなかったり、という生活を送っている。このような変化を前進とみなすべきなのかどうかわからない。

 

いまはドストエフスキー大江健三郎とサドと木村敏を並行して読んでいる。どれも面白い。でも、何かを選ぶということは何かを切り捨てるということだ。ぼくはずっと選ぶことを避けているのではないか。選ぶことを避ければ、捨てることを避けることにもなるのだろうか。しかし、ただぼんやりしているだけのようにも思う。

 

試しに、いまは思想系の本を中心に読もう、というふうにやってみるかどうか。目標を限定することで、自分のやりたいことが見えてくることもある。

 

さっき久し振りに木村敏『あいだ』を少し読んだ。この本は一度しか通読したことがないから、内容はほとんど覚えていないし、頭に残っていない。やはり最初のほうの音楽の合奏についての話は、圧巻だった。ビル・フリゼールもインタビューで、この木村敏の音楽についての文章とまったく同じようなことを言っていた。「あいだ」の話。

 

自分の苦しみに敏感になることも必要だし、自分の楽しみに敏感になることも必要だろう。

久し振りの更新、近況

久し振りの更新。更新は一年振りくらいになるけど、生活の形はほとんど変わっていないし、考えもほとんど変わっていない。いま読んでいる本はドストエフスキー大江健三郎、サド、木村敏など。

 

作業所というところに週四日で通い、余暇は本を読み、音楽を聴き、たまにギターを弾くという感じだ。ビル・フリゼールというギタリストが好きで、何曲か採譜して練習した。

 

ブログには特に書きたいことはない。昔はいろいろと考えを整理するために、あるいは誰かに話を聞いてもらいたいという思いがあって、ブログにいろいろ書いていた。

 

いま作業所では、週20時間まで増やすことを目標にしている。障害者雇用では週20時間が最低ラインだから、とりあえず週20時間で半年なり一年なり、休まずに通ったという実績を作らなければならない。その先に就労ということがあるのだと思う。

糸の切れた凧、木村臨床哲学の成果、正常者とされている人の語彙で理解する

確か、カイヨワが『遊びと人間』の中で、糸の切れた凧について書いていた。確か、糸の切れた幻想などただの勝手な妄想に過ぎない、ということだったと思う。ぼくはこの糸の切れた凧についてしばしば考える。ぼくにとって糸とは何か。ぼくにはまだかろうじて切れていない糸があるのではないか。たしかに、ぼくが考え、話していること、例えばこのブログに書いているような内容は、一見支離滅裂、意味をなしていないように見えるかもしれない、けれどもぼくの中ではつながっている。そのつながっているという確信は何を根拠にしているのか。

ぼくはまず、ヴァイツゼッカーの言っている「根拠関係」というもの、つまりミンコフスキーのいう「現実との生ける接触」というものを喪失している。ぼくは生命との接触を断たれている。つまり、糸が切れている。しかし、何が救いなのだろうか。ぼくにとって救いなのは、ぼくがその生命との接触を断たれているという事実に違和感を覚え、苦痛に感じているということだ。異常を異常として違和感を覚え苦痛に感じるという構造は、異常なものとは言えないだろう。それは正常者の思考構造なのではないか、とぼくは思う。つまり、ぼくは自己の異常を異常として違和感を覚え苦痛に感じる、その意味で正常なのだと考えている。つまり、その部分の糸は切れていないのではないか。

我々が、自分に理解できない言説に触れたときに、それを難解な思想と捉えるか(つまり正常者によって語られたものとして捉えるか)、それともこれはきちがいによって語られた無価値な妄想だと捉えるか、何を根拠にしているのだろう。どこかに我々正常者とつながっている糸を見いだしているとき、我々は他者を、病者を理解するのではないか。

ぼくについていえば、ぼくは共通感覚に異常をきたしている。自己と自己が一致していない、そういう意味で分裂している。自己が二つに分裂していて、意識と無意識とが調和していない。垂直の意味で、意識と深いところにある意識との間に断層、亀裂がある。そして同時に自己と他者、あるいは外界とのあいだ、つまり水平の意味で、亀裂がある。二重の仕方で引き裂かれている。この表現の仕方は、レインに倣っている。

共通感覚の異常に違和感を覚えこれを苦痛に感じている。ぼくは異常である、が異常であることに違和感を覚え、苦痛を覚える、その意味でぼくは正常であると感じている。正常であると感じているというか、正常であると見なされている人、自分を正常であると信じている人は、現実との接点を保っているのだと思う。その現実との接点とは何か。それこそが、現実との生ける接触、あるいは根拠関係なのだと思う。

しかし、ぼくが自分をある意味において正常だと信じることができるのは、木村敏西田幾多郎といった高度に分節化された思想の支えがあって初めてできることだ。彼らが、特に木村敏が、一般に異常とみなされる人たちを、つまり分裂病の人たちを理解しようと努力してきたから、それを土台としてぼくは自分と、いわゆる正常者との接点をわずかにでも見いだすことができるのかもしれない。木村敏は、一般に異常とみなされる人たちを理解しようと、つまり我々正常者とつうじるものをみいだそうと努力してきたのだと思う。その成果が、木村敏臨床哲学なのだと思う。正常者とみなされている人とたちと、異常者とみなされている人たちとのあいだには、何かつながりがあるのではないか、切れていない糸があるのではないか。

ともあれ、ぼくは自分の異常な体験を、正常とされている人たちと共有できることばで理解しようと努めてきた。異常な体験を異常なことばで考え表現するのはなく、正常者の語彙ではぼくの異常な体験はどのようにかんがえられるのか。ぼくに必要なのは、正常者とみなされている人の語彙である。

ぼくが山は山であり山でない、という論理構造で話すときも、ぼくは禅の思想を念頭に置いている(般若即非の論理、コインキデンチア・オッポシトルム)、つまり自分自身の言葉で語ることを避けている。正常とされる人が語る言葉で、自分の異常な体験を理解し、語る、それがぼくにとっての課題であり、目標である。

村上春樹が、人はみな病んでいるという考えが、自分の根本的な思想だというようなことを言っていた。つまり、人はみな多かれ少なかれ病んでいて、異常者である、ということ。

ナラティブ形成

「自分とは何か?」という問いかけは、小説家にとっては――というか少なくとも僕にとっては――ほとんど意味を持たない。それは小説家にとってあまりにも自明な問いかけだからだ。我々はその「自分とは何か?」という問いかけを、別の総合的なかたちに(つまり物語のかたちに)置き換えていくことを日常の仕事にしている。作業はきわめて自然に、本能的になされるので、問いそのものについてあえて考える必要もないし、考えてもほとんど何の役にも立たない→むしろ邪魔になる。もし「自分とは何か?」と長期間にわたって真剣に考え込む作家がいたとしたら、彼/彼女は本来的な作家ではない。あるいは彼/彼女は何冊かの優れた小説を書くかもしれない。しかし本来的な意味での小説家ではない。僕はそう考える。(村上春樹『雑文集』新潮文庫、23-24ページ)

 

そう、小説家とは世界中の牡蠣フライについて、どこまでも詳細に書きつづける人間のことである。自分とは何ぞや? そう思うまもなく(そんなことを考えている暇もなく)、僕らは牡蠣フライやメンチカツや海老コロッケについて文章を書き続ける。そしてそれらの事象・事物と自分自身とのあいだに存在する距離や方向を、データとして積み重ねていく。多くを観察し、わずかしか判断を下さない。(同、26ページ)

 

「本当の自分とは何か?」という問いかけが、その論理的な歪みのゆえに、オウム真理教(あるいはほかのカルト宗教)に多くの若者を引き寄せる要因のひとつになったということは、本書でも大庭健さんによってしばしば指摘されているところだ。(同、26ページ)

 

これらの村上春樹の文章が、ずっと前から気にかかっている。初めてこれを読んだとき、がつんと来た。衝撃的だった。ぼく自身がまさに、村上春樹がここでいっているような、オウム真理教にのめりこんでいった人たちと同じような陥穽にはまりこんでいるように思ったからだ。

 

ブランケンブルクという精神病理学者の本に『自明性の喪失』というのがある。この本に出てくるアンネ・ラウという患者は、自然な自明性を失っているとされている。この本では、彼女は単純型分裂病とされている。ぼくはこのアンネという人にそれなりに共感できる。まったく自分自身と同じだと思うわけではないけど、かなり近い感じかたをしていると思う。

 

分裂病は、生涯治ることのない病とされている。そして、ぼくは自分を内省型単純型分裂病というのに近いと思っている。主治医は、「統合失調症神経症の中間」といっている。診断書の病名は、「統合失調症」。

 

ぼくの病気が生涯治ることのない病であるとするならば、自明性を失っている状況からは生涯ぬけ出すことができないということになる。村上春樹が上の文章でいっているような提言が、ぼくにとって具体的に意味を持つのだろうか。意味を持つのか、持たないのか、まだ答えは見つかっていない。つまり、考え方を変えていくだけで、ぼくの病気が改善するのかどうか。ぼく自身が体験している「自明性の喪失」のようなものは、言語的に理解する必要のあるものなのだろうか。もし言語的に理解する必要のないものであるとするならば、木村敏ブランケンブルクやビンスワンガーなどの分裂病精神病理学も、まったく必要のないものである、ということになるのではないか。精神科医にとっては必要であっても、患者当人にとって、そのような種類の自己理解は必要がないということだろうか。

 

ぼくは自己理解を欲している。自己といっても、自分という確かな、手に取って眺めることができるようなものがあると考えているのではなくて、自分と世界とのあいだの距離だとか、自分が世界と、あるいは人間とどのように対峙しているのか、それが知りたい。それがたんなる浮ついた知的好奇心によるものなのか、もっと切実な自己治癒を望む気持ちによるものなのか、区別ができない。

 

ぼくは落ち着かなかったり、瞬間に自分自身が閉じ込められていると感じられて苦しかったり、あるいは自分の感情がとても弱くなっていて、考えるために必要な生きた脈絡のようなものを感じることができなくなっていて、日常生活を普通に大過なく送ることができない。

 

うろ覚えだけど、「これが自分の傷口だといって手に取って示すことができるような傷は、たいした傷ではない」、これも村上春樹がいっていたことだ。ぼくは自分が異常であると感じているし、日々苦しい時間が多い。しかし、いまこの文章を書いていて、自分は果たして本当に精神を病んでいるのだろうか、という疑問がわいてきた。結局ぼくの抱えている問題は、自意識の病であって、架空の創作なのではないか? 神経症が架空の創作であると森田正馬がいっているように。

 

現実感がない、ものがあるという感じがしない、人間が生きている感じがしない、物事をスクリーン越しに眺めているようにしか感じられない、時間が流れていかない、体験がすべてばらばらの点となっていて、脈絡が感じられないといった、一般に離人症として説明される状況も、結局は自意識の病であって、もともと異常でも何でもない人が、何かをきっかけとして落とし穴にはまりこんでしまっただけのことではないのか?

 

時間が流れていかないということが、ぼくにとって最も苦しい問題だ。しかし、いつもいつも時間が流れないというわけでもない。喫茶店にいって二時間くらい本を読み続けることもできる。

 

ぼくが哲学、宗教系の本に引きつけられるのは、自己理解を求めているからだろうか、それとも浮ついた知的好奇心によるものだろうか。わからない。「わからない」ということが、ぼくのいまの状況を最も簡潔に言い表しているのではないか、そういう気もしてきた。自己理解をしたいのかどうかももうわからない。たしか、自分は信頼できる感情なり、体験をかつては持っていた。それがあるときを境に、失われた。そのような変移を納得して理解することのできるナラティブとして、木村敏やミンコフスキーの分裂病精神病理学だとか、鈴木大拙の禅思想、西田幾多郎の哲学などが役に立っているということなのではないか。

 

「生きるとは、物語をつむぐこと」というようなことを河合隼雄がいっていた。結局、ぼくにとって自分のナラティブを形成するためには、木村敏鈴木大拙西田幾多郎といった人たちの思想が必要だったのだと思う。いまも十分にナラティブを形成できているとは思わないので、これからも必要なのだと思う。

 

「私には自分自身がいちばん怖い。自分が何をするかわからないということが。自分が今何をしているのかよくわからないことが」

「青豆さんは今何をしているの?」

青豆は自分が手にしているワイングラスをしばらく眺めた。「それがわかればいいんだけど」と青豆は顔を上げて言った。「でも私にはわからない。今いったい自分がどの世界にいるのか、どの年にいるのか、それすら自信がもてない」

「今は一九八四年で、場所は日本の東京だよ」

「あなたみたいに、確信をもってそう断言できればいいんだけど」

「変なの」とあゆみは言って笑った。「そんなの自明の事実であって、今さら確信も断言もないじゃん」

「今はまだうまく説明できないけど、私にはそれが自明の事実とも言えないの」(村上春樹1Q84 BOOK1 後編』、新潮文庫、326ページ)

喫茶店でニーナ・シモン

いい喫茶店を見つけた。内装もいいんだけど、コーヒーもケーキもおいしくて、音楽はデューク・エリントンなどのスイングジャズとか、ルイ・アームストロングエラ・フィッツジェラルドなど。ニーナ・シモンの一枚目のアルバムの「マイ・ベイビー・ジャスト・ケアズ・フォー・ミー」が流れていて、嬉しかった。まあ確かにこの曲はテレビのCMでも使われたりしていて、ニーナ・シモンの曲の中ではいちばんポピュラーなものだろう。一枚目の「ユール・ネヴァー・ウォーク・アローン」なんかは、喫茶店のBGMにかけるには思い切りが必要なのだろう。あと『ニーナとピアノ+4』の曲も、喫茶店のBGMには不向きかもしれない。もし喫茶店で「エブリワンズ・ゴーン・トゥー・ザ・ムーン」とか、「イン・ラヴ・イン・ヴェイン」とか「ミュージック・フォー・ラヴァーズ」とかが流れていたら、ぼくはもう歓喜して快哉を叫ぶね。

 

いま家で、クレンペラー指揮、バッハミサ曲ロ短調を聴いている。これはもう十年以上聴いているのかな。バッハといったら、このミサ曲ロ短調と、マタイ受難曲、あとピアノ曲ゴルトベルク変奏曲平均律、インヴェンション、パルティータあたりをたまに聴く。クレンペラー指揮、あとピアノはグレン・グールド中心。ディヌ・リパッティも聴く。リパッティといえば、彼のバルトークピアノ協奏曲第3番は、とても好き。ピアノが気品にあふれ、音色に透明感がある。バルトークのこの曲には、木々のざわめき、小鳥の歌、土の匂いが感じられる。あとリパッティの演奏で好きなのが、ショパンピアノ協奏曲第1番。

息苦しい、自分の病気の症状についていくつか

息が苦しい。過呼吸というやつだろう。ぼくの場合、胸のざわざわ感だとか、胸の中が空っぽの空洞になってその中を風がすーすーと吹いているというような感じに、息苦しさが伴っている感じ。これはとても苦しい。いまの病気になる前、神経症だったころは、自分にとって正しいこと、例えば聴きたい音楽を聴くとか、楽器の練習をするとか、大学の授業に出るとかすれば、一時的にこの息苦しさが収まるときが多かった。正しいことをすれば息苦しさが収まる、というような関係づけは、自分にとっては有効なナラティブ、物語だったと思う。

 

そして、いまの病気(主治医は統合失調症神経症の中間といっている)になってからは、この正しいことを見失ってしまった。いまの自分にとって正しいことがあるのかどうか、それすらわからない。これをすれば息苦しさが収まるというような、簡単な問題ではなくなっているように思う。

 

この息苦しさには、さらに目が見えているのに見えないような感じとか、手足ががくがく震えるような感じが伴うことも多い。このようなときは、何もできなくなる。とはいえ、何かをしなければ時間は過ぎていかないから、何かをしなくてはならない。何もできない、という感じを持ちながら、本を読もうと努めたり、ベランダに煙草を吸いに逃げたりする。

 

じっとしていられない。時間がなかなか過ぎない。時間がするすると過ぎていくこともあることはある。時間がとりあえずは過ぎたのだから、それで上出来だろう、と考えるときもあった。この時間の過ぎない感じが、作業所での作業の時間をつらいものにしている。作業所には週三日、一日三時間だけ参加しているけど、この三時間はとても長く、家に帰るとぐったりしていて、起き上がれないときも多い。極端に疲れやすい。

 

正しいことを見失ったというのは、どんな音楽を聴いても、楽器を練習しても、何をしても、この息苦しさが収まらなくなったということ。ずっと息苦しいわけではないけど、これをすれば息苦しさがなくなるというような、単純な構造ではなくなってしまった。

 

神経症だったころは、森田療法でいう恐怖突入すれば、自分は自分の欲しているところから逃げることなく、ちゃんと立ち向かっている、正しいことをしているのだという実感、充実感が得られた。これはとてもわかりやすい二極構造だった。自分は自分の欲するところから逃げているから苦しいのだ、自分の欲するところにちゃんと立ち向かえば、苦しみはなくなるのだ、というような。とても単純だ。

 

いまは、自分が何から逃げているのかもはっきりしないし、自分が何かに立ち向かっていると感じられるのは、本を読んでいるときくらいだ。だから、いまは読書ということにこだわっている。でも確かに、本を読んでいるときは比較的時間は普通に過ぎていくし、充実感、達成感も得られるし、楽しい。読書を通してこのような充実感などを得られなくなったとしたら、それは本当にまずい事態だろう。いまは少なくとも読書を通して、楽しみを得られる。自分が前に進んでいるという実感が得られる。

 

本当は、作業所に行かずに、毎日読書に打ち込みたい。しかし作業所の所長がそれを許してくれないし(ぼくにとって、どこにも通わないのはよくないことのように思う、のだと)、毎日家で本を読んでいるだけで、金だけ使っているのは世間体としてもよくない。所長は、「作業所をやめるとして、その先はどうするのか?」といっていた。もっともな疑問ではある。先がないのではないか。でも、いまが充実していれば、先はおのずと明らかになるのではないか、という思いもあるけど、それは楽観的過ぎるだろうか。未来というよくわからない不確実なもののために、現在を犠牲にするのが正しい生き方なのかどうか。

 

いまから一年と少し前に、作業所を三週間休ませてもらったときがあった。最初の一週間くらいは無事に過ごせたが、しだいに例の息苦しさ、目の見えない感じ、手足ががくがく震えるような感じがやってきて、落ち着かず、何もできなくなってしまった。一日中、家の中を歩き回ったり、ベランダに煙草を吸いに逃げたり、昼寝をしようと試みたり、端的にいって地獄的だった。そのときは、作業所などどこにも通わずにずっと家で過ごしていると、このような症状が強化されるのだろう、と判断した。だから、作業所には通ったほうがいいのだろう、と考えた。それでいまにいたる。作業所に通い始めてから、もう二年と少しが経つ。

 

この胸のすーすー感だとか、目の見えない感じを防ぐために作業所に通うというのは、動機としてはおかしいんじゃないか、とも思う。作業所に通うのは、本当は社会復帰なり就労を目指すためであるべきなんじゃないか。そのほうが、単純でわかりやすい。

 

ともあれ、いま記事を書いて二十分ほどがなんとか過ぎた。息はまだ苦しい。

村上春樹と漱石を読みたい

マルコ・ジ・マルコというイタリアのピアノトリオを聴いている。

 

読みたい本、気になる本はたくさんあるんだけど、優先順位をつけるのが難しくて、何から手を出したらいいのかがわからない。村上春樹は問題なく読み進められるんだけど、村上春樹以外にも読みたい本はある。漱石もわりと安全だと思う。『吾輩は猫である』は五回くらい、『三四郎』も六回くらい通読した。漱石の小説を全部読破するのがいいかも。漱石の作品は数としてはそんなに多くはないから、そんなに難しいことではないだろうと思う。いまは村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読んでいる。通読は四回目くらいか。

 

たしかに、このようにブログに文章を書くと、自分の頭の整理にはなる。村上春樹漱石を読めばいいんだ、というふうに、自分が何をするべきなのかが明確になる。ブログにも何も利点がないというわけではないのだろう。

 

今日は英語の勉強も少しだけやったけど、迷いを感じるというか、自分にとって英語の勉強に意味があるのか、という疑問が浮かんでしまう。

 

最近、家でじっとしていられず、読書に集中できないときとか、眠くて昼寝してしまいそうなときには、サンマルクカフェに行って本を読むことがある。いつもだいたい二時間くらい滞在する。その間は読書に集中できる。

 

ともあれ、今日もこれから本を読もう。今日は休みだったけど、特にこれといって何もしていない。村上春樹漱石を読めばいいんだ、ということがわかった。