日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

ドラムスティック買った

新しい四月始まりの手帳を買った。いま使っている手帳とまったく同じレイアウトの手帳。表紙の色と材質が違うけど、中のレイアウトはほぼ同じ。

 

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楽器店でスティックも買った。スティックを買うのはいつ以来だろうか。たぶん最後にスティックを買ったのは、24歳のころだ。いま33歳だから、九年前。本当に初心を思い出すというか、中学生のときの感じを思い出す。ドラムのスティックに材質の違いがあるなんて知らなかった。昨日ネットでスティックの選び方を調べて初めて知った。ヒッコリー、オーク、メイプルの三種類あるのだと。知らなかった。当初買う予定だったパールの110HCというスティックは、実際に手に持ってみると太いと感じた。別のパールの7HCというやつのほうが普通の太さに感じられたから、それを買った。いまアマゾンで調べてみたら、この買った7HCというスティックは、細いスティックなのだと書いてあった。ビル・スチュワートモデルとほぼ同じ太さと長さのスティックとのことだった。ビル・スチュワートは結構好きなドラマーで、昔新宿のピットインにピアノトリオで来たときにライブを見に行った。よかった。

今回買ったスティックは、パールのヒッコリー材のとオーク材のスティックの二組。オーク材のスティックを見ていると、ぼくが中学生のとき、六歳年上の兄が(大学の軽音サークルでドラムをやっていた)、家でオーク材のスティックで枕をばしばし叩いていたのを思い出す。そうか、あのとき兄が使っていたのがオーク材のスティックだったのか、と昨日気づいた。兄は高校まで柔道をやっていたのだけど、なんで大学に入ったときにドラムを始めようと思ったのだろう?今度、そのことについて聞いてみよう。

兄が使っていたスティックは、握る部分が手垢で真っ黒になっていた。ずっとその光景を忘れていた。手垢で真っ黒になるほど、兄はスティックを持ってたくさん練習していたのだろう。ぼくは大学のときに半年くらいのあいだだけ、ドラムを必死に練習していたけど、スティックが手垢で真っ黒になったことなど一度もない。でも、兄がスティックを手垢で真っ黒にしていたこと、それはとても素晴らしいことなのだと思う。一つのことに真剣に打ち込む姿は、美しい。

 

ドラムといえば、ストロークがまともにできないこともずっとコンプレックスだったけど、レギュラーグリップがまったくできないことも、コンプレックスだった。ぼくはマッチドでしかできない。上で触れたビル・スチュワートはおもにマッチドで演奏しているし、レギュラーができないことは恥ずかしいことでもないのだと思うけど、でもレギュラーグリップでの演奏の視覚的な美しさに強く憧れるのも事実。ジャズドラムの教則本には、両方できたほうがいいことはいうまでもない、と書いてあった。

あと、チック・コリアの「スペイン」みたいな、いわゆるサンバキックを使う曲が演奏できないこと、これもずっと気がかりだ。できないことばかりだ。

ともあれ、スティックも買ったことだし、これから毎日練習パッドでストロークの練習をしようと思う。マッチドとレギュラー両方で練習する。レギュラーグリップにはとても憧れる。二つを使い分けられるといいと思う。ブライアン・ブレイドみたいに。

今日も、何度か自分の手の動きやモーションに味わいを感じるときがあった。喜びというのだろうか。時間の流れ方、感じ方が今までと違う。時間に厚み、幅が出てきたと感じる。気のせいだろうか、気のせいではない気がする。

雪解けか

先週、ジャズのライブを見たとき、二曲目と三曲目のときだったか、涙が勝手にどばどばと流れた。その涙は自分の感情と結びついたものではなく、ただ涙が出ただけなのだとそのときは思った。花粉症の人が涙を流すのと同じことだろう、と。音楽は聴いていて楽しかったけど、涙が出るほど感動しているのだとは思えなかった。かといって、店内に花粉がたくさん飛んでいるのだとは思えなかった。

 

このように考えることもできるかもしれない、ジャズドラムというものにぼくはずっと愛憎のようなものを持っていて、いや、憎むというのとは違うな、自分がジャズドラムにずっと憧れているのに、自分には演奏ができないこと、自分が今の病気になったことで、感情表現ができなくなったのだというふうに考えていたこと、自分は生命との接触を断たれてしまったから、音楽を演奏することはもうできないのだと考えていたこと。好きでないということにしてしまえば、自分が音楽を演奏できないという事実に直面しないですむ。

 

ライブを見て、自分はやはりドラムが好きなのだということを改めて思った。心の雪解けのようなものなのかもしれない。

 

さっき、音楽を聴くとき、小型スピーカの音量のつまみを回すこと、その動作に生きた時間の流れのようなものを感じた。このような感じはとても久し振りだった。音量のつまみを回すことには意味がある。つまみを右に回せば、音量が上がる。先の記事にも書いたように、そこに味わいを感じた。いまこのようにパソコンのキーボードを叩いているこの動作にも、味わいを感じている。時間の幅、厚みを感じる。今まで、時間は一点の瞬間、瞬間ともいえないゼロの点に縮まっていた。時間に厚みがなくなっていた。これは、時間が流れないということを意味している。しかし、今回感じている味わいということは、時間に厚みが出てきたというふうにもいえる。

 

時間がわかれば、人生がわかる。これは道元だっけ?

いつもと違う、味わい

今日は休み。今日はなんか普段と違う感じがする。穏やかな幸せをかすかに感じる。味わいを感じる。音楽に味が、アマゾンでドラム関係の本とかを物色していて味が、本を読んでいて味が、ほっともっとのチキン南蛮弁当を買って食べて味が、自分がこうして居るだけで、味が感じられる。なんていうのか、一秒一秒、何かを味わっている感じがする。時間が一秒一秒流れていることに、味を見いだしているというか。なんでこうなったのかはわからない。最近ドラムの練習を始めたことがよかったのかもしれない。一週間前にジャズのライブを見に行ったことがよかったのかもしれない。先週から作業所の時間が増えて、週に16時間になったことがよかったのかもしれない。今日は休みだから、たまたま気分がいいのかもしれない。

今日は九時に起きて朝食を作って食べ、午前中は『カラマーゾフの兄弟』を少し読んだ。ドミートリイの予審の部分は、ドミートリイの言っていることが支離滅裂で、言葉の意味をなしていないように見えるから、読んでいて退屈だった。さっき予審の部分が終わって、少年の群という部分、コーリャが出てくる話になってまた面白くなってきた。

さっき、アマゾンで『スティック・コントロールStick Control for the Snare Drummer)』という有名なドラムの教則本を買ってみた。有名なドラマーの多くがこの教則本を使って練習してきたのだと。ドラムの練習は当面はスタジオに入ったときにだけやろうと思っていた。家では一切やらないのがいいのではないか、と。でも、この教本を使って家で練習してみたい気もしてきた。

今日届いたデューク・ピアソン『テンダー・フィーリンズ』を聴いているけど、とても素晴らしい。

障害の理解(社会復帰するさいに必要な自己分析)

自分の健康な部分を信じることも必要だと思った。ぼくは数年前から、自分にも健康な部分は残されているのではないかと考えた上で、どこからどこまでが健康で、また病的なのか、線引きをする作業を意識的に続けてきた。統合失調症と診断されたということは、精神的に病的な部分を多く持っているということだろう。けれども、病的といっても、健康な部分もあるはずだ。すべて病的ということはありえないだろう。まず、精神的に病的であるということがどういうことなのか、考える必要があった。(未だに、精神的に健康であることと、そうでないこととの違いがよくわかっていない。)

幸せに気づけることが大切なのだといって、幸せに気づくことができないことを非難するのはおかしい。幸せに気づくことができることが大切なのはいうまでもないことなのであって、それでも幸せに気づくことができないでいる人もいる。いま、この問題は衣食住の話ではなくて、共通感覚のことを念頭に置いて書いている。離人感のない、生き生きとした時間感覚、人間が生きていると感じられること、これこそ人間が感謝しなければならないことだろう。精神の健康――それは時間の健康、自己の健康とも言い換えられるかもしれない、それこそが幸せに気づくための条件の一つといえないか? 少なくとも、ぼくはそれを一度失ったと感じているから、それがいかに貴重なことであるのかがわかる。西田幾多郎は、衝突矛盾のあるところに精神があると言っている。

 

衝突矛盾のある処に精神あり、精神のある処には矛盾衝突がある。例えば我々の意志活動について見ても、動機の衝突のない時には無意識である、即ちいわゆる客観的自然に近いのである。しかし動機の衝突が著しくなるに従って意志が明瞭に意識せられ、自己の心なる者を自覚することができる。しからばどこよりこの体系の矛盾衝突が起るか、こは実在其物の性質より起るのである。かつていった様に、実在は一方において無限の衝突であると共に、一方においてまた無限の統一である。衝突は統一に欠くべからざる半面である。衝突に由って我々は更に一層大なる統一に進むのである。実在の統一作用なる我々の精神が自分を意識するのは、その統一が活動し居る時ではなく、この衝突の際においてである。(西田幾多郎善の研究』、岩波文庫、p120-121)

 

例えば太陽に譬えてみるに、太陽は無限なる光線を発射する、此の光線が何かの物質のために其の進路を妨げられた時始めて物が見える。丁度そのように我々の我も亦太陽の如きものであって、無限なる働きを其の本性とするものである、この我の無限なる働き其者が何者かに衝突した時に始めて物が見えるわけである、即ち物が意識に上るのである。フィヒテはこの衝突を Anstoss (障碍)と呼んでいる。 絶対我は何によっても限定されない絶対無限の働きである。しかし我が我自身を限定した時即ちアンストッスに出遇った時に、我のはたらきが我自身を見るのである。(西田幾多郎全集第十四巻、111頁)

 

話を戻そう。精神的に健康であるということがどういうことなのか、これは簡単な問題ではないと思う。最初は木村敏分裂病精神病理学の本を手に取ったけど、この問題は精神科の問題というよりも、哲学の領域の問題なのではないかと思った。現に、上に引用した西田幾多郎の文章は、精神の健康について考える上でも参考になる。(精神の健康という言葉、なんか響きが俗的というのか、ジャーナリスティックというのか、週刊誌的な響きに感じられる。気のせいだろうか。)

西田幾多郎とか、鈴木大拙エックハルトドストエフスキーなどを読んでいるうちに、精神の健康、不健康の境界線を引くことは、簡単なことではないことがわかってきた。線引きを行うことは、そんなに意味があることに思えなくなってきた。けれども、それはいま自分がモラトリアム的な生活を送っているからであって、これから社会復帰が近づけば、自分の病気について、考えなくてはならなくなるだろう。障害の理解というのか、そもそも、障害の理解というのは簡単ではない。どこからどこまでが障害なのか。線引きが難しい。渾然一体となっている。やる気がないのは病気のせいなのかどうか。(病気のせいだろう。)疲れやすいのは病気のせいだろう、このあたりはわかりやすい。

何をどう読むかが問題

井筒俊彦『神秘哲学』が文庫化されたらしい。前に図書館で借りて少し読んで、これは手元に置いておきたい本だと思った。そのとき借りたのは井筒俊彦著作集の第一巻だった。そのとき、アマゾンでその著作集の第一巻の古本の値段を見たら、手が出ない値段だった。だから諦めていた。さっき、先月発売された岩波文庫版の『神秘哲学』をアマゾンで購入した。明日届くとのこと。

 

さっきはてなブログで、ものすごいブログを見つけた。衝撃的だった。

 

さっきから、イヤホンでソフト・マシーンの『収束』を聴いている。アラン・ホールズワースのギター。ぼくはプログレッシブ・ロックにはあかるくない。高校生のときに、ピンク・フロイドキング・クリムゾン、イエスのアルバムをそれぞれ何枚か聴いていたという程度。

 

とにかく本を読むことが大切だと思った。昨日、努力しないで過ごす勇気も必要だということを記事に書いた。本を読むことが努力と感じられるわけでもない。本を読んでいる時間を増やす必要があるんじゃないか。本を読みたいという気持ちを抑えこむわけにはいかない。問題は、どのように本を読むか、だ。

努力しないで過ごす勇気を持つこと

夏目漱石とか村上春樹平野啓一郎あたりは、努力なしで読める。しかし、努力なしで読める本を読んでいると、落ち着かないときがある。努力することに対してこだわりなり執著があるみたい。努力しないで過ごす勇気も必要なのではないか。努力しないでいると、恐怖を感じるのかも。努力に執着するのは、恐怖の所産なのかも。成長しなければならない、前進しなければならない、という強迫観念。成長、前進(と考えるものごと)にかかわることをしないでもいいんだと、思えればいいのだと思う。「努力」しているときの充実感のようなものに魅力を感じるのも事実なのだろうけど。しばらく、エンターテインメントの本だけ読んでいようかと思った。(3.1)

 

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この文章は手帳に書き込んだものだから、誰かに読まれることを意識して書いたものではない。自分のため、考えをまとめるためだけに書いた。でも結果的に、こうして公開している。たまたま個人情報も書いていないし、公開しても問題はないと思う。裏に写っている文字にも、個人情報は書かれていないから、悪用されることもないだらう。

岩波文庫の古い版の米川正夫訳のドストエーフスキイカラマーゾフの兄弟』には、たまに誤植がある。上に書いたやうに、たまに、「こう言つた」とか、「そうなのであらう」とか、古い表記が直されずに印刷されている。それがまた味わい深くて魅力的なんだけれども。)

まさにドストエフスキーを読んでいるときのぼくは努力的なんだよな。努力的にならないと読めないということは、自分の読解力に見合っていない読書になってしまっているのかも。いや、でもゾシマ長老の話とか、面白い部分も多かった。大江健三郎を読んでいるときのぼくはもっと努力的だ。

努力なしで読めるものを読んで、何の意味があるのか、と思っている部分があるのだと思う。でもこれは自分の理解できない本が世の中にたくさん存在するという事実を受け入れることができないことから来ているのだろう。少しでも、理解できない領域を狭くしたいと思っているのかもしれない。それを向上心と呼んでいいのだろうか。あらゆることを知ることはできないし、あらゆる分野の専門家になることはできない。一人の人間が知ることのできる範囲は限られたものだろう。このような現実的でない理想形成は、やはり病的なものと言わなければならないだろう。自分の頭が悪いということ、自分がものを知らないということが(そのように感じていることが)、自分の偏った非現実的な実現不可能な理想形成に影を落としているのだろう。でも頭が悪いということ、これを思い煩う必要があるのだろうか? きりがない話じゃないか。

ともあれ、努力的でないcomfortとしての読書(comfortableな読書。慣れない英語を使ってみた)を意識してすることが大切だと思った。できないことをできるようにするというだけの読書に偏ってしまうと、読む本が偏るし、楽しみを制限することにもなる。

例えば村上春樹は、文章は非常に読みやすいけれど、内容はけっして簡単ではない。村上春樹いわく、簡単な内容を難しく表現するのではなく、難しい内容を簡単にわかりやすく表現するのが大切なのだと。それがいい文章なのだと。それは一般的によく言われていることだ。でも、ぼくは村上春樹の文章は読みやすいと感じるけど、文章そのものの美しさをあまり感じない。読みやすくて、どんどん読めるし、内容に入り込むことができるし続きが気になって止まらなくなるけれど、でも文章そのものの芸術的な美しさみたいなもの、古い文章を読んでいるときに感じる格調の高さのような、匂いをあまり感じない。

そのように考えると、漱石なんかはまさに格調高さと読みやすさ、面白さ、ユーモアを、すべて具備していると思う。

自分の無知の範囲を狭めるための読書は、結局ゲーム感覚なんだよな。できないことをできるようにする、という目的で本を読むのは、人生に真剣な姿勢といえるのかどうか。

背伸びしているうちに背伸びでなくなることも多い気もする。

 

He's a real nowhere man,
sitting in his nowhere land,
making all his nowhere plans for nobody. (The Beatles "Nowhere Man")

 

村上春樹夏目漱石平野啓一郎木村敏あたりは何の苦もなく読める。無理がない。どのような著者の本だと、無理なく読めるのか、探る必要があると思った。読書そのものは、自分にとって楽しみだと思う。

新聞を読む、外の世界を見る、勉強をする

新聞を読むことにした。いままで新聞を読む習慣がなかった。外の物事に目を向けることも大事なんじゃないかと思った。

 

いままで、心理療法精神病理学、哲学、宗教の本を中心に読んでいた。心理療法森田療法中心で、あと河合隼雄をいくらか読んだ程度。フロイトはまったく読んだことがない。精神病理学木村敏中心。哲学は西田幾多郎を少し読んだ程度。宗教は鈴木大拙とか聖書を少し、『宗教的経験の諸相』とか。

 

ここ一年くらいは、その手の本から遠ざかっていて、小説を中心に読んでいる。そのほうが自分にとって治療的と思われるのと、小説を読むことで外の世界に目を向けることができるのではないかと考えているから。漱石とか村上春樹とか平野啓一郎とか読んでいると、現実の物事に触れているという肌触りを感じることができる。抽象的な公式よりも、雑多な、具体的な事実に触れることを重視するべきなんじゃないか、という考えがある。それはジェームズ『宗教的経験の諸相』の冒頭に書いてあったことでもある。

 

どんなに深遠な公式であろうと、そういう抽象的な公式を手に入れるよりも、特殊な事実に広くなじんだほうが、ずっと私たちを賢くしてくれることが多いと私は信じているので、私は具体的な実例の数々をこの講義に盛りこんだ、そして、それら具体的な実例を、宗教的気質の極端に表現されたもののなかから選んできた。(ウィリアム・ジェームズ『宗教的経験の諸相』上巻、岩波文庫、9-10ページ)

 

まあともあれ、新聞を読むことから始めようと思う。新聞から始めて、いずれ実際の役に立つ勉強も始めたい。今までの人生で勉強をしたのは高校生のときの一年半だけで、勉強は基本的に苦手だ。小学校の算数から始めて、中学の数学の勉強もいずれやりたい。算数、数学、英語、政治経済、歴史あたりの基本的な知識は持っていたほうがいいと思った。

Abide With Me、アウグスティヌスに感動

夕飯のあと、自分の部屋で30分ほど音楽を聴いた。Thelonious Monk "Monk's Music"を聴いた。このアルバムは"Abide With Me"という讃美歌で始まる。机の上に乱雑に積まれた本を片づけ、整理した。最近はドストエフスキー木村敏大江健三郎を中心に読もうと考えていたけど、机に向かって机の本棚を眺めていると、読みたい本がたくさんあることに気づいた。アウグスティヌス『告白』(山田晶訳、中央公論社、世界の名著シリーズ)を開いて少し読んだら、これだと思った。ものすごい充実感だった。

 

いま述べたことの意味を見いだしながら神なるあなたを見いだしえないよりはむしろ、その意味を見いだしえないことによって、かえってあなたを見いだすことのほうを愛してほしい。(アウグスティヌス『告白』、69ページ)

 

この部分の註釈。

 

イスラエルの子らは、荒野において天上からくだったものを見て「マナ」といった。「これはいったい何だ」という意味である。しかし彼らは、そのわけのわからないものを食べて、荒野の旅をつづけることができた(「出エジプト記」一六・一五)。同じように、神の永遠の意味はわれわれによくわからなくとも、わからないままにのみこんでほしい。われわれにわからない神の永遠によって、われわれの生は養われるのだから。(同、69ページ)

 

完全に知られたと思ったとき、それはもはや神ではない。神は知られざることによってかえって知られるのである(『秩序論』二巻一六章一四節)。(同、69ページ)

 

ぼくは自分が共通感覚を失っていると考えていて、自分は神なるものを見いだしえないと考えている。しかし、よく考えてみたら、共通感覚に疵が入っているからこそ、共通感覚なるものがあるのだということを知ることができるのだし、それはつまり、「かえってあなたを見いだす」ということではないのか。

 

答えは、いつも問いについてくる。すなわち、問うことが、答えることなのである。しかし同時にまた、問いがなされないかぎり、いかなる答えも生まれないということを忘れてはならない。(鈴木大拙『禅』ちくま文庫、29ページ)

 

しかしながら、もし求めようとしないならば、すなわち、それを突きとめようとして特に心を傾けることがないならば、われわれはけっしてそれを把握することはできない。(同、30ページ)

 

しかし、ぼくはマナなるもの、つまり「これはいったい何だ」というものを食べることで荒野での旅をつづけることが、できているのかどうか。できていないのではないか。わからないものをわからないままにのみこんでいるといえるのだろうか。いえないのではないか。村上春樹色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という小説の中で、蛇は体内にとりこんだ食べ物を、長い時間をかけて消化する、という話が出てきた。ぼくは消化不良になっている気がする。鷲田清一が『哲学の使い方』という本の中で、思考の肺活量ということをいっている。わからないものをわからないままに、観察する姿勢が大事なのだと。判断を下してはならない。それと同じことを、村上春樹自身も言っていた。

 

われわれは、さまざまなものに支えられて生きている。正気を保っていられるものも、支えがあるからだろう。健康を保っていられるのも、安全な環境で生活できるのも、支えがあって可能なことだろう。「われわれにわからない神の永遠によって、われわれの生は養われる」。木村敏的に言えば、われわれは共通感覚によって養われている、ということになるだろうか。神とか絶対無を共通感覚と言い換えていいのかわからないけれど。

 

Abide with me; fast falls the eventide

The darkness deepens; Lord with me abide

When other helpers fail and comforts flee

Help of the helpless, O abide with me

 

(われと留まれ。夜が落ちる。

闇が深まる。主よ、留まれ、われと。

助けがとどかず、慰めが逃げるなら、

無力なものの救い主よ、おお、われととどまれ)

日暮れて四方は暗く - Wikipedia

 

 

言語化は大事

言語機能って、言葉って大事だと思う。言葉だとか理屈に頼ってはいけないというような意見も世の中には存在する。では何に頼るのか、それは直感だとか、勘だとか、感情だとか、そういうものなのだと。

 

ぼくの場合、自分が何を好きなのかとか、何に興味があるのか、それを言語化するのに失敗している感じがあるので、言葉は大切だと思う。

 

ミンコフスキー『精神分裂病』に出てくるある患者は、私は生命との接触を失った、その欠如を私は理知によって補っている、というようなことを言っている。ぼくはこの患者にとても共感するのだけど、でも理知によって補うといっても、補いきれるものなのだろうか?

 

ぼくが生命との接触を失ってしまった、といっていることは、勘違いなり妄想なのだろうか?それは違うと思う。そもそも、ぼくが生命との接触を失ったという考えに至った原因は、ジャズドラムの即興演奏ができなくなったことにあるのだから。ジャズドラムができなくなったのは、なぜなのか?それを探るために、ぼくは木村敏などを読んで勉強してきたのだと思う。きわめて実際的で具体的な動機だと思う。

 

話は違うけど、カントは面白い気がしてきた。いままでまったく触れたことがなくて、なんとなく自分には縁がないのではないかと思っていたけど、この前『純粋理性批判』を最初から少し読んだら、よかった。というか、カントを読まないで西田幾多郎を読んでいたのは無理があったのではないかと思った。

おもに読書について、雑感

ここ半年、いや一年くらいか、精神病理学、心理学、哲学、宗教といったジャンルの本をほとんど読んでいない。つまり、小説しか読んでいない。どのような小説かというと、ドストエフスキー大江健三郎村上春樹平野啓一郎といったところ。去年は『カラマーゾフの兄弟』を二回通読した。いまも『カラマーゾフの兄弟』を読んでいる。本を読んでいるといっても、能力的に多くは読めない。一日に100ページも読めば上出来なほうだ。

 

さっき久し振りに木村敏の『あいだ』という本を引っ張り出して、読みだした。やはりこれはとんでもなく面白いと思うし、この本を読むのはぼくにとって何の苦もないし、ある意味とても簡単なことだと思った。完全に理解できているとは思わないし、木村敏の思想のごく一部分しか理解していないのかもしれない。でも、文章の平易さは問題ではないのだと思った。木村敏の文章は一般的に難しいとされているけど、内容の難しさをはるかに上回る面白さがあるから、ぼくは木村敏の本を読むことに苦を感じない。

 

それでも、木村敏から離れてしまうのはなぜだろうか。これを読んでいて、意味があるのだろうかという疑問が頭に浮かぶことがある。これは本だけに限らず、ギターの練習についてもいえることだ。これをしていて意味があるのだろうか、と思うことがある。本の選択を間違えているのではないか?ギターは趣味から除外するべきではないのか?

 

西田幾多郎を読んでいて、これを読んでいて意味があるのだろうかと思うことがある。鈴木大拙を読んでいて、そう思うことがある。とても面白いと思う時もある。木村敏にしろ、西田幾多郎鈴木大拙にしろ、とても面白いと思う一方で、「これを読んでいて意味があるのだろうか」という疑問が浮かぶ時点で、ぼくはこれらを大して面白いと感じていないということになるのではないか?村上春樹にしてもそうだ。面白いと思う。最後まで読み通すことは苦ではない。でも、疑問が浮かぶことがある、ぼくが読みたい本はこれなのだろうか?もっと読むべき本が他にあるのではないか?もっと他にやるべきことがあるのではないか?

 

村上春樹、ということで思い出した。村上春樹国境の南、太陽の西』という小説で、主人公は自問自答している、いまの自分の人生は上出来かもしれない、しかしこれが本当に自分の望んでいる人生なのか、と。

 

ここ一年くらい、小説だけを読んでいる。去年の四月から手帳に日記とか読書記録を書いているから、何の本を読んだのかも一目瞭然になっている。去年の四月から、いまに至るまで、小説以外の本は確か三冊くらいしか通読していない。聖書はたまに開くけど。ちょうど、去年の四月に鈴木大拙『禅』ちくま文庫、を通読している。三回目くらいの通読だったけど、とても鮮烈な印象があった。線を引っ張りまくり、ページの角を折りまくった。

 

ぼくは数年間、西田幾多郎鈴木大拙に執着していた。両方の岩波の全集を全巻揃えていて、これらをいずれは読破したいと思いながらも、なかなか読み進められないことに落ち着かなさを感じていた。いまから一年くらい前に、西田幾多郎にしても鈴木大拙にしても、文庫で出ているやつだけ読めばいいのではないかと思って、全集全巻はクローゼットの中にしまった。

 

木村敏西田幾多郎鈴木大拙は、ぼくにとって思想系著者の三強といっていいのだろう。木村敏については、主要な著作は十五冊くらい読んだので、自分は木村敏をまったく読んでいないというふうに不満を感じることはない。鈴木大拙にしても、主要な著作を八冊くらいは読んだので、それなりに理解していると思っている。けれども、西田幾多郎については、『善の研究』『思索と体験』の二冊しか読んでいない。あと全集から講演の文章をいくらか読んだだけ。エックハルトとかクザーヌスについての内容だった。西田幾多郎については、やはり前々から興味があるのに、ちゃんと読んでいないということに落ち着かなさを感じているのかもしれない。

 

ぼくはいま小説しか読んでいないけど、確かに小説も面白い。でも、面白いという感じは相対的なもので、もっと面白いものがあるならば、そっちを取るべきだろう。ぼくは本を選ぶとき、小説と、思想系、というふうに二つにわけて考えている。いまは小説中心で行こう、とかそういう二分法というかスプリッティングみたいなのが起こっている。

 

木村敏臨床哲学対話1と2、現代思想の総特集木村敏を発売後すぐに買って読んだのはいつのことだったか?もう二年くらい経っているのではないか。一時期、禁止ということを重視していた。つまり何かしら禁止をしなければ、何か目標を達成することはできないのではないか。例えば、本を一冊読み通す場合、一冊に集中することを阻む行動を、みずから禁止するわけだ。並行読みは禁止するべきかいなか、これも前から悩まされている問題の一つだ。以前は、思想系の本を中心に読もう、とか、自分に何らかの方向づけを与えていた。いまは無方向的に放埓に、適当に本を読んだり読まなかったり、ギターを弾いたり弾かなかったり、という生活を送っている。このような変化を前進とみなすべきなのかどうかわからない。

 

いまはドストエフスキー大江健三郎とサドと木村敏を並行して読んでいる。どれも面白い。でも、何かを選ぶということは何かを切り捨てるということだ。ぼくはずっと選ぶことを避けているのではないか。選ぶことを避ければ、捨てることを避けることにもなるのだろうか。しかし、ただぼんやりしているだけのようにも思う。

 

試しに、いまは思想系の本を中心に読もう、というふうにやってみるかどうか。目標を限定することで、自分のやりたいことが見えてくることもある。

 

さっき久し振りに木村敏『あいだ』を少し読んだ。この本は一度しか通読したことがないから、内容はほとんど覚えていないし、頭に残っていない。やはり最初のほうの音楽の合奏についての話は、圧巻だった。ビル・フリゼールもインタビューで、この木村敏の音楽についての文章とまったく同じようなことを言っていた。「あいだ」の話。

 

自分の苦しみに敏感になることも必要だし、自分の楽しみに敏感になることも必要だろう。