日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

懸隔を感じない一体感って信用できるのかどうか

自分の見ている世界に満足してしまうことも多いけど、今までの人生でこの人の目で世界を見てみたい、と思える人に何人か出会った。ジブリの「耳をすませば」という映画のテーマはそれなんじゃないかとぼくは思ってる。自分以外の人の目で世界を見てみたいという気持ち。この人の目には世界はどのように映っているのだろうか、自分の見ている世界だけでは不十分なんじゃないか。自分の今までの人生はなんだったんだろう?自分は今まで、いったい何を見てきたのだろう?そのように思わせてくれる人と出会うことがたまにあるみたいだ。

 

埴谷雄高が、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』について言っていたと思うけど、「この小説の世界が現実であるならば、私の生きている世界は現実ではない。私の生きている世界が現実であるならば、この小説の世界は現実ではない。」というようなことを言っていたと思う。そう思わせられるほどに、埴谷雄高にとって、自分の生きている世界とドストエフスキーの小説世界との間には懸隔が感じられたのだと。

 

ぼくは今は、自分の見ている世界に満足していることが多い。それでいいのだろうか、という疑問もなくはない。中学一年の時にリッチー・ブラックモアというロックギタリストに出会って、ぼくは初めて自分以外の誰かになりたいと思った。それ以来、ぼくは、他人の目で世界を見てみたいと思って、自分を変えたいと思うことが多かったと思う。

 

自分の見ている世界と他人の見ている世界が違うのは当たり前のことだろう。でも、それが問題に感じられるのは、他人を理解したいと思ったときだろう。自分は自分、他人は他人、というふうに割り切って、距離を置いて考えることが難しくなるときがあるんじゃないか。自分の見ているものと他人の見ているものが違うのは当たり前のことだよ、と冷静に言い切ることができないときもあるんじゃないか。他人を理解したい、他人と同じ目で世界を見てみたい、と思うときがある。でもそう簡単に他人を理解できないし、同じ目で世界を見ることもできない。そのようなときに、孤独を感じる。

 

村上春樹ねじまき鳥クロニクル』という小説は、他人と共有できる痛みをテーマにしていると思う。そもそも、我々は他人の痛みを理解することはできない、というのは本当だろうか。登場人物の一人が、そのようなことを言っている。

 

高橋源一郎が、まったく理解を絶した物事については、わからないということすらいえないのだ、というようなことを言っていた。埴谷雄高ドストエフスキー体験は、強烈な「わからなさ」体験だったんじゃないかな。懸隔を感じた、と言っているけど、懸隔を感じることのない一体感って、信用できるのだろうか。

地獄の季節

ぼくは昔、詩を書いていた時期があった。大学生のころ、もう十年以上前の話だ。そのころは、自分の目に映ったものを誤りなく正確に言語に置き換えるという決まりを守り、写真を撮るように、一瞬の時間目に映ったことを正確に言葉に置き換えようとしていた。自分の考えていること、すでに頭の中にある考えを言葉にするのではなく、また書きながら考えるのでもなく、向こうからやってきた一瞬の映像を言葉に置き換えること。ぼくはそれを幻視詩と呼んでいた。その当時、忘れたくない感情を経験することが、日常的に多かった。一日の中で、何度も、忘れたくない感情を経験した。夜寝る前に、今日一日で数か月分の経験をしたような気がする、と思うこともしばしばだった。何か形に残さなければ、自分はそれを忘れてしまう。写真を撮らずに、心に焼きつけるのだといった言辞もあるけれど、ぼくには心に焼きつけることなどできなかった。だから何かの形で残して、忘れないように記念とするしかなかった。自分の体験したものを形に残さずに永久に忘れ去ることが、怖かった。だからそれを言葉に置き換える作業は、失敗を許されないものだった。成功か失敗かということは、あくまでも自分の見たものをどれだけ正確に言葉に置き換えることができたか、ということを基準としていた。つまり、ぼくにとって文章の質、詩の出来不出来ということはまったく関心の埒外にあった。むしろ、その当時のぼくにとって重大なのは、自分の見たものを誤りなく言葉にして、形にして残すことであって、その文章を見た人がどう感じるかといったようなことに対しては無関心だった。どこかに、自分と同じものを見ている人がいるはずだ、そのような期待、確信だけがあった。傲慢だったのだともいえるだろうし、ぼくはそれだけ余裕がなかったのだと思う。

 

それで、いまその当時の詩を読み直すと、確かにいまのぼくには書けない内容なのだけども、でもやはり拙い文章だと思う。でもその一方で、迸りのようなものを感じる、気もする。下にその当時の詩の一つを貼りつけるけれども、やはり拙い、かな。いま下の文章、あるいは詩を読み直して、特に感動するわけでもないけれども、でも今の自分には理解のできない感情が表現されているように思う。ぼくはこの当時よりもある意味で健康になったのだといえるだろうし、この下の詩を書いていたときはある意味で今よりも狂気的だったのかもしれない。この当時はまだ統合失調症とは診断されていなかったし、主治医に訊いても、「まだ(統合失調症を)発症はしていない。神経症だ」と言われた。しかし、この詩を書いていた時期は、いわゆる統合失調症の陽性症状の出ている急性期にあったのかもしれない。しかし、主治医は前駆期、といっていたからそれが正しいのだろう。

 

2008年6月8日(日)7:12
自分が「生きていること」に少しも明るい展望が見出せないのです(自分の「未来に」、ではありません)。「これがあるから、生きていたいと思う」というのが、いまのぼくにはないのです。いままでは、どんなに一日を、毎日を生きていくのが過酷であっても、「生きていれば、こんなに良いものを見ることができる、だから死にたくはない」と思えるような、自分にとって重大なものを、たとえば音楽の中とかに、見出せていたのです。それが自分を生に繋ぎとめていたのです。いまは、自分に「生きていたい」と思わせるもの(どんなに小さなものでもいいのです。たとえば、夕飯を楽しみにするとか…)が、なくなってしまったのです。感じられないのです。ぼくは疲れているだけなのかも知れません。生きていることに、何も望むものがなくなっても、取り敢えずは生きているつもりです。再び、何かに憧れたり、何かを愛したりすることがこれから自分に訪れるかもしれません。取り敢えずは、それまで自分をこの世界に繋ぎとめていようと思います。でも、いまは涙が止まらないのです。いままでは、「生きていたい」と思って泣くことはしょっちゅうありました。でも、いま自分が泣いている理由はちっとも判りません。「自分は何も望んではいない」ということを素直に感じます。生きている人たちが馬鹿のようにさえ見えます。何もないのに。でも、死んでも何もない。生きていても何もないとしても、これから先、何かが訪れることを期待して、生きているしかないでしょう。でも、いまは世界が酷く、「からっぽ」に見えます。からっぽな世界に、80年も生きていて、それがいったい何になるというのでしょう。それがいまの感想です。でも、どうせ一晩寝ればこんな気持ちもなくなるのです。たぶん。どうせ明日には、アイコの音楽を聴いて「生きていたい」と思って泣いているに違いないのです。ぼくに死ぬことは絶対に出来ないでしょう。ぼくはたぶん、疲れているだけなのです。

 

 

煙草、ベルクソン

七か月振りに煙草を吸った。禁煙が終わったということだ。

 

昨日から風邪をひいていて、いま頭が痛い。風邪をひいているときの煙草って、けっこうきつい。

 

今日で連休は終わり。今日はサンマルクカフェで二時間くらい本を読んだ。ベルクソン「道徳と宗教の二つの源泉」。中央公論社の世界の名著シリーズに入っているのを読んだ。とても面白くて、すいすい読めた。これからこれを読み進めたい。

 

明日からまた作業所。風邪ひいているし、かといって休めるほど重症ではないので、いやだなあ。頭痛がして、頭がふらふらする。鼻、喉がつらい。

 

ベルクソンの本に、社会とか責務ということが書いてあって、われわれは社会から孤立することはできないのだということが書いてあった。また、義務というものはほとんどつねに自動的に遂行されていくものなのだと。社会復帰というものを目指しているぼくにとって、とても興味のある内容だった。

 

今まで、社会とか個人について考えたことがなかった。今まで自分が読んだり考えたりしてきたのは、おもに自分ということだとか、自己の底に他を見ることだとか、そういうことにかぎられていた。社会ということについて、また社会と個人の関係については一度も考えたことがなかった。だから、社会復帰といっても、社会って何、という感じだった。

 

久し振りに煙草吸いすぎたからかな、頭が痛い。

四連休、自分の見ているものを言葉にするのは難しい

久し振りに投稿しよう。

 

今日から四連休。何も予定は入れていない。こういうのはとても久し振り。二日続けて休みというのもめったにないけど、四連休となると一年振りくらいかもしれない。

 

やはり用事がないのは素晴らしい。もちろん、人と会って遊ぶこともそれにはそれの楽しみがあるけど、一人で過ごす時間もとても大事だと思った。自分探しというのかな、ぼくはずっと自分探しをしているけれど。一人で過ごしていると、苦しむときもあるけど、でも好きで苦しんでいるんだから、これはこれで幸せだと思えるときが多い。

 

でも、このように言葉で説明するのは難しいな。自分の体験、自分の見ているものを言葉に置き換えることは難しい。自分がどのような人間なのか説明するということは、物語をでっちあげることだから、小説的な能力が必要となる。自分とは何か、自分は何をするべきなのか、そのような疑問に答えるためには、小説的な虚構をでっちあげる想像力が必要となる。

 

そういえば村上春樹ダンス・ダンス・ダンス』の冒頭のほうに、自己紹介の難しさについて書いてある。データが不足している、というやつ。データが不足しているため、回答不可能、取り消しキーを押してください、というようなやつ。小学生のとき、クラスの人たちを前にして自己紹介をする、そのさい周りの人たちを見ていると、自分のことを流暢に語る人が多い。この小説の主人公は、自己紹介が苦手で、自分について何が語れるのか、たった2分か3分の自己紹介で自分の何が語れるのか、そのように感じている。

 

自分はやさしい人間です、とか自分は積極的に行動するタイプです、というような自己申告にどれだけの信ぴょう性があるのか、主人公はそこに疑問を覚える。だから、なるべく客観的な事実と思われるもの、例えば「ぼくは犬を飼っています」とか「牡蠣フライが好きです」とか、そのようなこと。しかし、そのような客観的と思われることも、自分が改ざんしているのではないかと不安になる。嘘をついているのではないか、と。

 

しかし、それでも沈黙を選ぶのではなくて、主人公は語ろうと意志する。そういえば、村上春樹風の歌を聴け』の中でも、文明とは伝達である、伝達すべきものがなくなったとき、文明は終わる、というようなことが書いてある。小説の中の精神科医が言っていた。また、うろ覚えだけど、嘘と沈黙は悪であるというようなことも書いてあった。それにもかかわらず、我々はしばしば嘘をつき、黙りこんでしまう、と。しかし、我々が真実しか語らなくなったとしたら、真実の価値はなくなってしまうのかもしれない、とも。

 

ともあれ、他人に自己紹介をする機会がなくとも、自分が今日一日何をするか選び取るためには、自分が何をしたいのか、何が好きなのか、といったことについての理解が必要となる。それはとりもなおさず、自分とは何か、ということだ。自分の歴史を自分なりの言葉で理解することだ。もちろん、自分の歴史についての理解は、一つだけではない。このような問題は、フロイト精神分析にも関係するのかもしれない。フロイトはちゃんと読んだことがないので、あやふやだけども。

 

心理療法の立場には、確かhere and now を重視して、過去について言語的な理解を進めることをむしろ禁止するような立場もあった覚えがある。森田療法なんかそれに近いと思う。言語的に自分の過去を理解、整理することではなく、手を動かすことが大事なのだということだったと思う。ぼくは一時期森田療法を何年間か勉強実践していたけど、言語的な理解を退けるような考え方に疑問を持っていた。それは結局、あるがままとか全人間的な解決ではなく、つまり生きることではなく、治療ということが第一に考えられてしまっているのではないか、と思った。森田療法心理療法であって、哲学でも思想でもない、神経症の治療を目的としている。治ろうが治るまいがどちらでもいいことだ、という立場ではない。

 

ぼくは森田療法に疑問を持つようになってから、村上春樹の小説とかユング的な方向に向かっていったけれども、結局いまの病気に発展してしまった。

 

何の話をしていたんだっけ。

 

最近は澁澤龍彦の本を読んでいる。いま『黒魔術の手帖』を読んでいるけど、とても面白い。

 

風の歌を聴け』に、主人公が女の子に「嘘つき!」といわれて、いや、彼女は間違っている、僕は一つしか嘘をつかなかった、というような文章がある。

喜び、悲しみ、透明な感情(獰猛な欲望)

今日は出かけてきた。朝、家を出る前に15分くらい練習した。夕方に家に帰ってきて、夕飯の前に15分くらい、夕飯を食べたあと、一時間ほど練習した。今日は一時間半ほど練習したことになる。でも、練習していると一時間なんてあっという間だな。一日に最低二時間は練習しないと、復習すらできない気がする。

今日はテンポ90とか100を鳴らして、8分音符でひたすら左手のシングルストロークのアップダウンの練習をやった。リズムパターンの練習もやった。

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練習していたら、涙があふれてきて、床にぼたりぼたりと落ちた。スティックを振ることの喜び。スティックをメトロノームに合わせて振りつづけていることは、自分にとって、失われた時間、人生を取りもどすための具体的な行為のひとつひとつなのだと思った。(2019.3.23)

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今日は外に出ているとき、胸のざわざわだとか、息苦しさが目立った。

家に帰って、ドラムの基礎練習を始めると、自分の感じているこの感情は、悲しみなのだと思った。練習をしているうちに、胸のざわざわは多少静まりつつあるように感じた。一時間半だけ練習できた。やはり目安としては、一日に三時間くらいの練習は必要かもしれない。

いま音楽を聴いている、モダンジャズを。楽しい。デューク・エリントンの『マネー・ジャングル』を聴き、デューク・ピアソン『テンダー・フィーリンズ』を聴いた。どちらも好きなピアニストだ。

いま、エルヴィン・ジョーンズ『プッティン・イット・トゥギャザー』。エルヴィンのドラムも大好きだ。信じられない演奏。このような驚きを感じられることが嬉しい。エルヴィンはぼくにとって目標というか、理想的な指標の一つだ。

いま気づいたけど、かっこいいと思ったフレーズを一小節だけでも、譜面に書き出して、練習する手もあると思った。一曲まるまる採譜して練習するというのは膨大な時間が必要とされるし、非効率で現実的ではない。アイデアを盗むということ。例えば、いまエルヴィンの演奏を聴いていて、八分音符の二つ目、三つ目にバスドラムを入れるフレーズがあった。この部分だけでも、練習するとか。そういうやり方がいいのだと思った。

 


一撥の音色でも尊く取り扱う。承知しないと何回でもやり直す。そうするとなんとも言えない境地におかれてくるのです。それであまり調子にのり過ぎますと、自分で琵琶を弾いていて涙が出てくる。なんのために涙が出てくるかわからん。それは一種の感激でしょうね。それで自分で滑稽になって、これはいかんな、ひとりよがりしてはいかんなとときどき思うのですが、そういう境地に入ることがあるんです。ですから、こんな幸福なものはないと思います。(辻靖剛、『武満徹対談選』、ちくま学芸文庫、103-104ページ)

 

さっき、1小節1拍理論というものを思いついた。1小節なり、ひとまとまりのパターンを1拍と捉えられるまで、身体に覚えこませる。

あと、4拍8連理論。8分音符が1小節のなかに8つ並んでいる場合、4拍8連符として捉える。つまり、1小節の中で8等分されたものとして捉えない。8つの8分音符のそれぞれの長さを長くしたり短くしたりする。それで気持ちいいタイミングを探す。探すというか、好きなドラマーの演奏のタイミングを真似するというか。

アンドリュー・ヒルジャッジメント』を聴いている。ここでのエルヴィン・ジョーンズもものすごい。アンドリュー・ヒルのピアノがまず第一に素晴らしい。アンドリュー・ヒルも、一番好きなピアニストの一人だ。

 

でも今、私は音楽的な主張を持たない。前はあったけれども。そのことをネガティヴにとらえる人が多いんですが、これはネガティヴでもなければ、私は引退するわけでもないんです。(笑)(キース・ジャレット、『武満徹対談選』ちくま学芸文庫、165ページ)

 

明日はたくさん練習したい。

いせ源のあんこう鍋、安部公房、シュルレアリスム、細野晴臣

夕飯は神保町のいせ源であんこう鍋を食べてきた。初めてのあんこう鍋。知らない世界を一つ新しく知ることができて、よかった。いせ源の前に、神保町のさぼうるという喫茶店でコーヒーを飲んだ。

移動中は安部公房『友達・棒になった男』(新潮文庫)という戯曲集を読んでいた。「友達」を読み終えて、いま「棒になった男」。ものすごい。こんなにすごい小説世界があるとは。難解といえば難解なんだけど、楽しむことは容易で、エンターテインメントしていると思う。単純にこの小説世界をかっこいいと思って読み進められるし、意味を深読みするのも面白いだろうし。ぼくなんか深く考えないで、自分は今ものすごいものに触れているというひりひりとした興奮を得られれば十分だろうと思う。音楽を聴くのと同じかな。バッハ、武満徹セシル・テイラーを聴くのと同じ。

安部公房の小説に初めて触れたのは、高校二年のとき。『壁』という小説を読んだ。あれはまさに衝撃だった。その当時、ジャズを聴き始めていて、同じ時期にチック・コリアの「スペイン」のライブテイクだとか、スーパー・ギター・トリオの「地中海の舞踏」、マハヴィシュヌ・オーケストラパット・メセニー・グループといった音楽に出会って、自分の知らない世界に興奮していた。

安部公房の小説世界も、そのような新しい世界として、新鮮に感じられていた。確か初めて読んだ小説がその『壁』だったんだけど、本を読み慣れていない当時の自分でも楽しめた。こんな面白い本があるのか、文学というのはこんなにかっこいいものなのかと、とてもわくわくしながら読んでいた。

小説中に出てくる、とらぬ狸がいっているシュールリアリズムという言葉が気になって、これがシュールというやつなのか、と思った。アンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言』を読んだのは、数年後の大学二年のときだった。映画『アンダルシアの犬』も、大学二年のときに見た。シュルレアリスムは、ぼくにとって憧れというか、自分は芸術に憧れていて、自分が特に興味を持ったのはシュルレアリスム(超現実主義)だった。自分がドラムを演奏する方法論としても、シュルレアリスムはよりどころとなっていた。

さぼうるでは、細野晴臣泰安洋行』が流れていた。ドラムは林立夫。昨日、ドラムマガジンでの林立夫のインタビューを読んで感動したばかりで、今日も家を出る前に荒井由実の後ろでの林立夫のドラムをずっと聴いていたから、すごい偶然だと思った。ちょうど『泰安洋行』をはじめとする細野晴臣トロピカル三部作などのアルバムも聴きなおしてみたいと思っていたところだから、びっくりしたのと同時に、必然な気もした。

神保町で三省堂書店にも寄ったけど、やはり大きな書店は楽しい。朝日新聞がアンケートを取った、平成の本ベスト30というのも全部一か所に並んでいて、一通り手に取って目を通してみた。一位が村上春樹1Q84』。東浩紀『観光客の哲学』も、初めて手に取って立ち読みしてみた。予想外に、文体が心地よく、結構おもしろそうだと思った。ドストエフスキーについての章だけおおまかに目を通した。あと『チェルノブイリの祈り』という本が気になった。文庫本のコーナーにも行ったけど、ボルヘスの『伝奇集』はやはり拾い読みしていてわくわくした。こんな世界があるのだ、と。『巨匠とマルガリータ』もやはり最後まで読みたい、と思ったり、『ヘーゲルからニーチェへ』も最後まで読みたい、と思ったり。やはり本も読みたいな。ドラム中心にやっていきたいと思うけど。そこに今は迷いはない。

ドラムスティック買った

新しい四月始まりの手帳を買った。いま使っている手帳とまったく同じレイアウトの手帳。表紙の色と材質が違うけど、中のレイアウトはほぼ同じ。

 

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楽器店でスティックも買った。スティックを買うのはいつ以来だろうか。たぶん最後にスティックを買ったのは、24歳のころだ。いま33歳だから、九年前。本当に初心を思い出すというか、中学生のときの感じを思い出す。ドラムのスティックに材質の違いがあるなんて知らなかった。昨日ネットでスティックの選び方を調べて初めて知った。ヒッコリー、オーク、メイプルの三種類あるのだと。知らなかった。当初買う予定だったパールの110HCというスティックは、実際に手に持ってみると太いと感じた。別のパールの7HCというやつのほうが普通の太さに感じられたから、それを買った。いまアマゾンで調べてみたら、この買った7HCというスティックは、細いスティックなのだと書いてあった。ビル・スチュワートモデルとほぼ同じ太さと長さのスティックとのことだった。ビル・スチュワートは結構好きなドラマーで、昔新宿のピットインにピアノトリオで来たときにライブを見に行った。よかった。

今回買ったスティックは、パールのヒッコリー材のとオーク材のスティックの二組。オーク材のスティックを見ていると、ぼくが中学生のとき、六歳年上の兄が(大学の軽音サークルでドラムをやっていた)、家でオーク材のスティックで枕をばしばし叩いていたのを思い出す。そうか、あのとき兄が使っていたのがオーク材のスティックだったのか、と昨日気づいた。兄は高校まで柔道をやっていたのだけど、なんで大学に入ったときにドラムを始めようと思ったのだろう?今度、そのことについて聞いてみよう。

兄が使っていたスティックは、握る部分が手垢で真っ黒になっていた。ずっとその光景を忘れていた。手垢で真っ黒になるほど、兄はスティックを持ってたくさん練習していたのだろう。ぼくは大学のときに半年くらいのあいだだけ、ドラムを必死に練習していたけど、スティックが手垢で真っ黒になったことなど一度もない。でも、兄がスティックを手垢で真っ黒にしていたこと、それはとても素晴らしいことなのだと思う。一つのことに真剣に打ち込む姿は、美しい。

 

ドラムといえば、ストロークがまともにできないこともずっとコンプレックスだったけど、レギュラーグリップがまったくできないことも、コンプレックスだった。ぼくはマッチドでしかできない。上で触れたビル・スチュワートはおもにマッチドで演奏しているし、レギュラーができないことは恥ずかしいことでもないのだと思うけど、でもレギュラーグリップでの演奏の視覚的な美しさに強く憧れるのも事実。ジャズドラムの教則本には、両方できたほうがいいことはいうまでもない、と書いてあった。

あと、チック・コリアの「スペイン」みたいな、いわゆるサンバキックを使う曲が演奏できないこと、これもずっと気がかりだ。できないことばかりだ。

ともあれ、スティックも買ったことだし、これから毎日練習パッドでストロークの練習をしようと思う。マッチドとレギュラー両方で練習する。レギュラーグリップにはとても憧れる。二つを使い分けられるといいと思う。ブライアン・ブレイドみたいに。

今日も、何度か自分の手の動きやモーションに味わいを感じるときがあった。喜びというのだろうか。時間の流れ方、感じ方が今までと違う。時間に厚み、幅が出てきたと感じる。気のせいだろうか、気のせいではない気がする。

雪解けか

先週、ジャズのライブを見たとき、二曲目と三曲目のときだったか、涙が勝手にどばどばと流れた。その涙は自分の感情と結びついたものではなく、ただ涙が出ただけなのだとそのときは思った。花粉症の人が涙を流すのと同じことだろう、と。音楽は聴いていて楽しかったけど、涙が出るほど感動しているのだとは思えなかった。かといって、店内に花粉がたくさん飛んでいるのだとは思えなかった。

 

このように考えることもできるかもしれない、ジャズドラムというものにぼくはずっと愛憎のようなものを持っていて、いや、憎むというのとは違うな、自分がジャズドラムにずっと憧れているのに、自分には演奏ができないこと、自分が今の病気になったことで、感情表現ができなくなったのだというふうに考えていたこと、自分は生命との接触を断たれてしまったから、音楽を演奏することはもうできないのだと考えていたこと。好きでないということにしてしまえば、自分が音楽を演奏できないという事実に直面しないですむ。

 

ライブを見て、自分はやはりドラムが好きなのだということを改めて思った。心の雪解けのようなものなのかもしれない。

 

さっき、音楽を聴くとき、小型スピーカの音量のつまみを回すこと、その動作に生きた時間の流れのようなものを感じた。このような感じはとても久し振りだった。音量のつまみを回すことには意味がある。つまみを右に回せば、音量が上がる。先の記事にも書いたように、そこに味わいを感じた。いまこのようにパソコンのキーボードを叩いているこの動作にも、味わいを感じている。時間の幅、厚みを感じる。今まで、時間は一点の瞬間、瞬間ともいえないゼロの点に縮まっていた。時間に厚みがなくなっていた。これは、時間が流れないということを意味している。しかし、今回感じている味わいということは、時間に厚みが出てきたというふうにもいえる。

 

時間がわかれば、人生がわかる。これは道元だっけ?

いつもと違う、味わい

今日は休み。今日はなんか普段と違う感じがする。穏やかな幸せをかすかに感じる。味わいを感じる。音楽に味が、アマゾンでドラム関係の本とかを物色していて味が、本を読んでいて味が、ほっともっとのチキン南蛮弁当を買って食べて味が、自分がこうして居るだけで、味が感じられる。なんていうのか、一秒一秒、何かを味わっている感じがする。時間が一秒一秒流れていることに、味を見いだしているというか。なんでこうなったのかはわからない。最近ドラムの練習を始めたことがよかったのかもしれない。一週間前にジャズのライブを見に行ったことがよかったのかもしれない。先週から作業所の時間が増えて、週に16時間になったことがよかったのかもしれない。今日は休みだから、たまたま気分がいいのかもしれない。

今日は九時に起きて朝食を作って食べ、午前中は『カラマーゾフの兄弟』を少し読んだ。ドミートリイの予審の部分は、ドミートリイの言っていることが支離滅裂で、言葉の意味をなしていないように見えるから、読んでいて退屈だった。さっき予審の部分が終わって、少年の群という部分、コーリャが出てくる話になってまた面白くなってきた。

さっき、アマゾンで『スティック・コントロールStick Control for the Snare Drummer)』という有名なドラムの教則本を買ってみた。有名なドラマーの多くがこの教則本を使って練習してきたのだと。ドラムの練習は当面はスタジオに入ったときにだけやろうと思っていた。家では一切やらないのがいいのではないか、と。でも、この教本を使って家で練習してみたい気もしてきた。

今日届いたデューク・ピアソン『テンダー・フィーリンズ』を聴いているけど、とても素晴らしい。

障害の理解(社会復帰するさいに必要な自己分析)

自分の健康な部分を信じることも必要だと思った。ぼくは数年前から、自分にも健康な部分は残されているのではないかと考えた上で、どこからどこまでが健康で、また病的なのか、線引きをする作業を意識的に続けてきた。統合失調症と診断されたということは、精神的に病的な部分を多く持っているということだろう。けれども、病的といっても、健康な部分もあるはずだ。すべて病的ということはありえないだろう。まず、精神的に病的であるということがどういうことなのか、考える必要があった。(未だに、精神的に健康であることと、そうでないこととの違いがよくわかっていない。)

幸せに気づけることが大切なのだといって、幸せに気づくことができないことを非難するのはおかしい。幸せに気づくことができることが大切なのはいうまでもないことなのであって、それでも幸せに気づくことができないでいる人もいる。いま、この問題は衣食住の話ではなくて、共通感覚のことを念頭に置いて書いている。離人感のない、生き生きとした時間感覚、人間が生きていると感じられること、これこそ人間が感謝しなければならないことだろう。精神の健康――それは時間の健康、自己の健康とも言い換えられるかもしれない、それこそが幸せに気づくための条件の一つといえないか? 少なくとも、ぼくはそれを一度失ったと感じているから、それがいかに貴重なことであるのかがわかる。西田幾多郎は、衝突矛盾のあるところに精神があると言っている。

 

衝突矛盾のある処に精神あり、精神のある処には矛盾衝突がある。例えば我々の意志活動について見ても、動機の衝突のない時には無意識である、即ちいわゆる客観的自然に近いのである。しかし動機の衝突が著しくなるに従って意志が明瞭に意識せられ、自己の心なる者を自覚することができる。しからばどこよりこの体系の矛盾衝突が起るか、こは実在其物の性質より起るのである。かつていった様に、実在は一方において無限の衝突であると共に、一方においてまた無限の統一である。衝突は統一に欠くべからざる半面である。衝突に由って我々は更に一層大なる統一に進むのである。実在の統一作用なる我々の精神が自分を意識するのは、その統一が活動し居る時ではなく、この衝突の際においてである。(西田幾多郎善の研究』、岩波文庫、p120-121)

 

例えば太陽に譬えてみるに、太陽は無限なる光線を発射する、此の光線が何かの物質のために其の進路を妨げられた時始めて物が見える。丁度そのように我々の我も亦太陽の如きものであって、無限なる働きを其の本性とするものである、この我の無限なる働き其者が何者かに衝突した時に始めて物が見えるわけである、即ち物が意識に上るのである。フィヒテはこの衝突を Anstoss (障碍)と呼んでいる。 絶対我は何によっても限定されない絶対無限の働きである。しかし我が我自身を限定した時即ちアンストッスに出遇った時に、我のはたらきが我自身を見るのである。(西田幾多郎全集第十四巻、111頁)

 

話を戻そう。精神的に健康であるということがどういうことなのか、これは簡単な問題ではないと思う。最初は木村敏分裂病精神病理学の本を手に取ったけど、この問題は精神科の問題というよりも、哲学の領域の問題なのではないかと思った。現に、上に引用した西田幾多郎の文章は、精神の健康について考える上でも参考になる。(精神の健康という言葉、なんか響きが俗的というのか、ジャーナリスティックというのか、週刊誌的な響きに感じられる。気のせいだろうか。)

西田幾多郎とか、鈴木大拙エックハルトドストエフスキーなどを読んでいるうちに、精神の健康、不健康の境界線を引くことは、簡単なことではないことがわかってきた。線引きを行うことは、そんなに意味があることに思えなくなってきた。けれども、それはいま自分がモラトリアム的な生活を送っているからであって、これから社会復帰が近づけば、自分の病気について、考えなくてはならなくなるだろう。障害の理解というのか、そもそも、障害の理解というのは簡単ではない。どこからどこまでが障害なのか。線引きが難しい。渾然一体となっている。やる気がないのは病気のせいなのかどうか。(病気のせいだろう。)疲れやすいのは病気のせいだろう、このあたりはわかりやすい。