2014-12-28から1日間の記事一覧
久し振りにサイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」を聴いて、自分はまだこの音楽の価値をわずかにではあるけれど、感じられるかぎりにおいて、人間なのだと思いました。ぼくはこの音楽を聴いてなにも感じない人間は、人間ではないと思っていました。…
木村敏『関係としての自己』を読んでいて、離人症についての概説的な部分に触れ、自分は離人感を、統合失調症になって以来、違和的なものとして感じていないということに気づいた。つまり、慣れてしまっていて、これを問題として、意識することがなくなって…
ニーナ・シモンの『ニーナとピアノ+4』では、張りつめた、透明な静寂が表現されている。この種類の静寂が表現された音楽は、このアルバム以外に、ぼくは知らない。世の中には、音のある音楽ばかり。音以前の静寂を聴かせてくれる音楽は、このアルバム以外に…
「本書で取り扱えなかった諸問題のうち、現在私の念頭にあるのは、直接性の病理としての「境界例」(borderline case)という主題である。元来は分裂病と近縁の病態として考えられたこの特異的な自己同一性の障害は、現在の私の考えでは、明らかに直接性の病…
久し振りにニーナ・シモンの『ニーナとピアノ+4』を聴いているけど、改めて、The Desperate Ones は、Music For Lovers のための序曲だと思った。Desperate は、オリジナル盤の最後の曲なので、Music For Lovers の序曲として想定されてはいなかったはずな…
「柄谷 ぼくがマルクスについて書いたのもそれとよく似ているかも知れません。マルクス主義者がもつような切実な関心を、ぼくはマルクスについてもっていないのです。たとえば、ニーチェの方にはるかに関心がある。しかし、ニーチェではなく、マルクスについ…
そういえば、一昔前に「コレジャナイロボ」というのが流行ったが、ぼくは2010年の2月に統合失調症を発症してから、ずっと「コレジャナイ感」を感じている。この感覚、いつかなくならないかなあ。自分の感覚を、受け入れられるようになるときは来るのだろうか…
ミンコフスキー、ブランケンブルク、木村敏などの精神病理学の本を読んでも、治療的意義はない、というふうに思っていたけど、統合失調症という病気について理解を深めるということと、治療的ということと、区別しないといけないな。例えば、神経症の人が森…
人間性の深奥に肉薄する芸術を生み出すためには、統合失調症的世界に一歩足を踏み入れねばならないが、本格的に統合失調症を発症した場合、その人は永久に人間性から隔離される。この矛盾。しかし、人間性の本質が、人間性を失いつつある人にしか看取せられ…
ぼくが楽器をやらなくなった理由はなにか。音楽を聴くのが楽しくなくなったからか。感情の動きがほとんどなくなったからか。なにか自分の感情を誰かに伝えたいという欲求を失ったからか。耳が悪くなったからか。即興演奏に必要な、瞬間瞬間の自発性がなくな…