日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

2014年12月19日(金) 20時19分49秒

ぼくが楽器をやらなくなった理由はなにか。音楽を聴くのが楽しくなくなったからか。感情の動きがほとんどなくなったからか。なにか自分の感情を誰かに伝えたいという欲求を失ったからか。耳が悪くなったからか。即興演奏に必要な、瞬間瞬間の自発性がなくなったからか。楽器に触っていても楽しくなくなったからか。リズム感覚を失ったからか。音色が汚くなったからか。手足が動かなくなったからか。そもそも、なんの理屈も関係なく、やりたくなくなったからか。

これらすべて、ぼくが楽器をやらなくなった理由に当てはまる。理屈で説明できるものではない。なんで楽器やらないの、やればいいじゃん、おまえは現実から逃げてるだけだろ、という提言は的外れで、そもそも楽器は他人に勧められてやるものではない。できるんだったら、とっくにやっているよ。それは内なる欲求の問題であり、楽器を演奏することを愛していた人が、楽器を触っても少しも楽しくなくなるということは、精神そのものに変化がないかぎり、起こりえない。人格変化の一部と言っていい。

また、音楽との接触が失われていることが、楽器に興味を持てなくなったことの原因であるとも言える。音楽とはなにか。音楽とは、一言で他の言葉に言い換えられるものでは当然ないが、「現実」と言い換えることもできるかと思う。音楽とは、人間の感情の最も奥深くにあるものであり、木村敏のいう「あいだ」的なものであり、「音楽との接触を欠いている」ということは、すなわち精神に異常をきたしているということであり、それは「あいだ」の病理で、診断的には、離人症統合失調症という病名が当てはまる。

しかし、離人症における「あいだ」の病理は、まだ決定的なものではなく、まだ「音楽」、つまり「現実」との接触を取り戻すことは可能である。離人症の患者は、「音楽」を完全に失っているわけではないから、離人症者は音楽をまだ知っているし、演奏も可能である。少なくともぼくの見てきた範囲内では、離人症の患者は、健康な人よりも音楽を深く体験していることが多い。

離人症統合失調症はともに「あいだ」に関する病気であると言えるが、統合失調症の場合、離人症と違って、その「あいだ」を再び取り戻すのは不可能とは言い切れないかもしれないが、非常に難しいと言わざるを得ないのだと思う。というより、ぼくは離人症統合失調症を区別する目安は、この「現実」との接触が完全に失われているのか、それともまだかろうじて「現実」との接触が保たれているのかにあると思っている。つまり、「現実」との接触が完全に絶たれている「離人症者」は、もはや離人症者ではなく、統合失調症と診断されるだろう。「現実」との接触が、まだかぎられたかたちで保たれている「統合失調症者」は、正しくは離人症者であろう。

ぼくはこのブログに再三書いてきたように、神経症水準と精神病水準を分かつ指標は、上のように、「現実」との接触の喪失が完全なものであるかいなかであると思っている。精神科の病気、診断についてほとんど知識を持ちあわせていない素人の考えなので、間違っているかもしれないけれど。

つまり、神経症水準とは、「現実」との接触がまだ保たれていて、それはすなわち音楽との接触が保たれているということなので、楽器の演奏も可能な状態と言える。精神病水準とは、「現実」との接触が完全に絶たれていることを意味し、それはすなわち音楽との接触が完全に絶たれていることであるので、楽器の演奏は不可能な状態と言える。というふうに、ぼくは考えている。

精神病水準とは、「現実」との接触が「完全に」絶たれている状態だ、と書いた。ミンコフスキーは、統合失調症の本質を「現実との生ける接触の喪失」としているが、この「生ける」という語が、「完全に」に当たる。

つまり、「現実」との接触の量ではなく、質が問題なのだ。量が問題なのではない。ミンコフスキーが言っている「現実との生ける接触の喪失」という概念も、生ける接触という、接触の質を問題にしているのであり、接触の量を問題にしているのではない。以前は100あった接触が、20になるというようなことではない。このような考え方にのっとると、演奏はまだ20パーセントの力でできる、というふうにもなるが、演奏能力は0になっていると言ったほうがいい。誰もいまのぼくの演奏を聴いて感動はしない。

このように、ぼくは音楽を演奏できるかいなかをもって、自分が神経症水準であるか、精神病水準であるかをはかっていると言える。そして、音楽を演奏できなくなったことの根本的な理由を説明するさいには、やはりミンコフスキーの「現実との生ける接触の喪失」という概念によるほかはない。