日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

2014年10月02日(木) 20時32分26秒

柄谷 ぼくがマルクスについて書いたのもそれとよく似ているかも知れません。マルクス主義者がもつような切実な関心を、ぼくはマルクスについてもっていないのです。たとえば、ニーチェの方にはるかに関心がある。しかし、ニーチェではなく、マルクスについて書いてしまったということは、むしろ偶然的な事情のせいだと思います。ただ、どういうわけか、ニーチェについては「書く」という気があまりしないのですね。」(『柄谷行人蓮実重彦全対話』、p62)

 

これは、とてもよくわかる。わかるというか、病前のころを思い出す。

 

いま気づいたけど、自分がこのブログに「読書ノート」と称して書き写している文章は、おそらくほとんど全部、自分の病前の体験を思い出させるような文章だと思う。

 

たとえば、誰の文章でもないけど、「夕焼けが美しい」という文章があったとして、ぼくはその文章を気に入るとする。いま現在、その夕焼けの美しさというものがどういうものかわからないので、過去に夕焼けをどのように美しいと感じていたかを思い出すことくらいしかできない。要するに、過去の自分だったら、夕焼けをこのように美しいと感じていたのだろうな、と想像する。

 

いま現在の考え、感じたことを書け、と言われても、それはほとんど無理だ。夕焼けを見てもなにも感じないし、音楽を聴いてもほとんどなにも感じない。本を読んでも、なんの感想もわいてこない。

 

夕焼けを見た感想、赤かった、終り。音楽を聴いた感想、テンポが速かった、終り。本を読んだ感想、難しかった、終り。

 

これでも、ぼくは夕焼けをどうすれば美しいと感じられるか、それなりに研究している。「研究」はおおげさだろうけど、その美しいと感じられないことの成り立ちを言語的に理解しようと試みてきた。なぜ美しいと感じられないのか。もちろん、こんなことを研究したって、夕焼けが美しいと感じられるようになるわけではないことはわかっている。でも、他になにができるというのか。夕焼けが美しいと感じられないのは、気合いが足りないからだろうか。

 

話を戻す。過去の自分だったら、こういうふうに感じていただろう、考えていただろう、ということをほとんど常に意識している。いまの自分の感情、あるいは考えが大切だ、という人もいるだろう。でも、いまの自分の考えを尊重するとなると、それこそ上に書いたように、「夕焼けを見た感想、赤かった、終り」になってしまう。そこで、感情が豊かに機能していたころの自分だったら、このように感じ、考えていただろう、と想像する必要が出てくる。少なくとも、ブログに文章を書く場合は、「赤かった、終り」というわけにはいかないから、そうした想像が必要になる。

 

ブログを書かないのであれば、あるいは人と会話をしない場合には、そうした想像は必要がないだろう。ただボケーッとしていればいいのだから。しかし、これから働いたりする上で、人と話をすることは避けられないから、一種の会話の技術が必要となる。つまり、「赤かった、終り」というふうに正直に話すことは、相手が病気に対して理解がない場合、難しいだろう。誇張して「夕焼けがとても美しかった」というふうに言わなければ、会話は成り立たない。「ほんとうは、美しいなんて思っていない」なんて言うわけにはいかない。