日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

2014年05月26日(月) 21時43分52秒

木村敏『関係としての自己』を読んでいて、離人症についての概説的な部分に触れ、自分は離人感を、統合失調症になって以来、違和的なものとして感じていないということに気づいた。つまり、慣れてしまっていて、これを問題として、意識することがなくなっている。

 

というのは、暇の感覚とか、無気力とか、疲れやすさとか、関心のもてなさだとか、対人恐怖症だとか、ちぐはぐ感だとか、そうした症状のほうが前景に現れているため、そちらに注意が行き、現実感の喪失のほうには目が行かなくなったからだと思う。

 

離人症は、確かに神経症としては重症の部類に入るけれど、統合失調症と比べると、そんなに大したことはないと思う。それは、ミンコフスキの「現実との生ける接触」が保たれているかいなかに関係している。離人症においては、この「現実との生ける接触」は、視認が困難ではあるけれど、失われてはいない。まだ、この接触に通じる道は、残されている。

 

しかし、離人神経症から統合失調症に発展した場合、この「現実との生ける接触」への通路は、おそらく、永久に絶たれているものと思われる。そして、現実感の喪失が第一義的な問題ではなくなる。

 

いや、第一義的な問題ではなくなるというのは誤りかもしれない。ぼくの場合、つまり単純型統合失調症においては、第一義的な問題は、「世界への親しみ」という感情をめぐるものなのだと思う。それが、永久に把捉できないものなのかは、わからない。少なくとも、ぼくは、単純型統合失調症に陥った人が、「世界への親しみ」を再び取り戻すことができた、という話を、聞いたことがない。

 

もっとも、病識の過剰な、単純型統合失調症という事態自体、まれなものらしく、ネットでもほとんどお目にかかれないし、そのなかで、さらに、「世界への親しみ」という感情において危機に陥っており、これを第一義的に問題にしている人となると、さらにまれなものなのだろう。

 

実際、妄想も幻覚もない病型が、統合失調症の分類に存在しているということを知らない人も多いし、「世界への親しみ」という感情において危機に陥っている、というような病態が存在していることも、知らない人が多いのだと思う。

 

ぼくの病気は、離人神経症の延長上にあるのだと思う。病識は過剰で、これは離人神経症と区別はつけられない。現実感、つまりリアリティではなくして、アクチュアリティの喪失を問題にしているという点でも、離人神経症と、現在のぼくの病気と区別はつけられない(リアリティとは、理性的にものがあると理解できるということで、アクチュアリティとは、実感をもって、ものがあると体感できるということで、とくにアクチュアリティの問題は、西田幾多郎のいう行為的直観や、純粋経験と関係が深い)。

 

それでは、離人神経症と、現在のぼくの病気とで、なにが異なるのだろうか。それは、離人神経症においては、「世界との親しさ」は、まだ取り戻しが可能なものであり続けているが、現在のぼくの病気においては、取り戻しが、おそらく不可能である、という点だと思う。なぜ、取り戻しが不可能だということがわかるのか。それは、ぼくの現在の病気が、単純型の統合失調症であると考えられ、また、統合失調症は、完治のない病気である、ということによる。

 

つまり、統合失調症の本質は、ミンコフスキによると、「現実との生命的接触の喪失」にあり、また、統合失調症に完治はないとされる。となると、統合失調症に陥った人は、「現実との生命的接触」を、二度と取り戻すことはできない、ということになる。

 

ところで、ここで注意を促したいのは、木村敏によると、統合失調症の本質を体現しているのは、病型でいうと、寡症状性の、単純型、破瓜型の統合失調症であるということ。つまり、陽性症状の顕著な、妄想型は、統合失調症的ではないとされている。実際、妄想型においては、人格の変化の少ない人も少なくないといわれているし、「現実との生命的な接触の喪失」が、統合失調症の本質であるとしたところで、妄想型の人のなかには、このミンコフスキの概念に、ぴんとこないという方もおられるのではないかと思う。

 

ぼく自身、やはり、自分が最も望んでいることは、世界との親しみを取り戻すことであると思う。でも、それは不可能事であるということもなんとなくわかっているので、世界との親しみを取り戻す、ということは括弧に入れておいて、この世界との親しみの失われた状態で、いかによりよく生きていくか、ということを考えていくしかないと思う。

 

となると、第一義的な問題は、アクチュアリティの喪失であることは確かだけれど、それは実現不可能であるという意味で、第一義的に問題にするべきではない。となると、アクチュアリティの失われた状態で、いかによりよい生を生きるか、ということを問題にするしかない。ぼくは、現在のところ、過去に自分の身に起こっていたこと、現在も自分の身に起こっていることを、可能なかぎり、言語化し、理解するということが、大切だと思っている。

 

ぼくは数日前に、こんな言葉、格言のようなものを思いついた。

 

「未来に対する志向の集積が過去であって、未来志向性を欠いた現在は、過去にすらなりえない。」

 

未来志向性。これは、やはり、未来に対する希望的な感情をもつということが大切だということなのだけど、現在のぼくに、未来志向性、つまり未来に対する希望はあるのか。未来に対して抱いてきた希望の集積が、過去と呼びうるものである。

 

未来志向性ということを、大切にしたい、と思っている。