2014年12月25日(木) 21時53分05秒

久し振りにサイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」を聴いて、自分はまだこの音楽の価値をわずかにではあるけれど、感じられるかぎりにおいて、人間なのだと思いました。ぼくはこの音楽を聴いてなにも感じない人間は、人間ではないと思っていました。いや、もちろん生物学的には人間なのでしょうが、善性に欠けた人間だというふうに思っていました。要するに、この曲は、ぼく個人の問題にすぎないのですが、自分の人間性、humanity がどれだけ残っているのかをはかる試金石でした。

 

べつに、「明日に架ける橋」を聴いても、なにも感じないという人がいてもいいとは思うのですよ。上に「善性」と書きましたが、そうすると、この曲を聴いてなにも感じない人は、善性に欠けた悪人ということになります。いや、善性に欠けた人は悪人ではない。ぼくは善性という言葉を、審美眼というような意味で使ったのかもしれない。善は美である。

 

善は美である、と書いて、西田幾多郎の『善の研究』を思い出しました。要するに、この本で説かれている善とは、個人性の発揮ということであり、これはユングのいう自己実現の過程的なものであり、それは要するに禅なのです。

 

善の研究』というタイトルは、素晴らしいと思っています。

 

また、上に「審美眼」と書きましたが、となると「明日に架ける橋」を聴いてなにも感じない人は、審美眼を持っていない、ということになる。ぼくは、「明日に架ける橋」を聴いてなにも感じない人は審美眼を欠いている、善性を欠いているなどと本気で思っているわけではありません。ただ、ぼくがそのように感じることもあるということを、大切にしたいと思っています。

 

たとえば、村上春樹は小説『ダンス・ダンス・ダンス』のなかで、「偽善的なサイモンとガーファンクル」というふうに書いています。ぼくは、村上春樹を審美眼の欠けた人間だとは思わないし、審美眼の欠けた人間に、『風の歌を聴け』というような小説が書けるわけがないのです。

 

そういえば、村上春樹アンダーグラウンド』において、サリン事件の被害者の一人が、「ジブリの映画を見て、涙を流すことで、自分がまだ人間であることを確認している」と言っていました。ぼくにも、とてもよくわかります。ぼくが音楽とかかわっていたのも、それと同じ動機によるものですから。

 

ぼくは、「明日に架ける橋」を聴いても、たいがい、なにも感じません。要するに、ぼくは人間ではなくなったのです。いま思うのは、信念が大切だということです。「この歌を聴いてなにも感じないやつは人間ではない」というふうに信じられるものがあるということは、とても大切であるということです。それくらいのエゴイスティックな信仰がなければ、音楽などできないと思います。いまは、なにも信じていません。

 

信念とはなにか。信じるということは、愛よりも尊いと思います。ゆえに、人間にとって最も大切なのは、愛ではなく、信じるという能力であると思います。愛は、現在存在するものに対して向けられるものであるのに対し、信念は、いまだ存在しないものに対しても向けられています。存在しないもの、存在したであろうもの、存在するであろうもの。ニーチェは『ツァラトゥストラ』のなかで、「遠人愛」を説いています。隣人愛よりも、遠人愛のほうが貴いのだと。この遠人愛とは、つまり信念のことです。