日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

失語症患者のリハビリテーション

いま現在の考え、感じたことを書け、と言われても、それはほとんど無理だ。夕焼けを見てもなにも感じないし、音楽を聴いてもほとんどなにも感じない。本を読んでも、なんの感想もわいてこない。(2014年10月02日(木) 20時32分26秒

 

ぼくはいま、こうした失語状態にある。失語した人間は、なにも語るべきではないのだろうか。それは、美学的に言えば正しい。「語る」ということを、「歌う」という意味に捉えるのならば、正しい。しかし、ほんとうにそうだろうか。

 

ぼくは、失語してはいるが、つまりここでいう失語というのは、自分の見た、あるいは体験したものを、言葉に置き換えるという能力を失ったことをいうのだが、数年にわたる「失語症患者のリハビリテーション」の結果、なんとか文章らしきもの、とりあえずは文章に見えるものを書くことができるようになってきた。確実に言えることは、失語する前と、いまとでは、文章を書く方法論が違う。以前は、自分が見たものを、それもあとから思い起こしてまとめたうえで文章にするのではなく、現在自分が見ているものをまさにリアルタイムに、書き起こして残しておく、というものだった。ちょうど、写真を撮るかのように。いまは、パソコンに向かっては、うんうん文章をひねり出している。

 

たぶん、後者のような書き方のほうが、一般的というか、健康的なのかもしれない。普通は、なにか美的なものに触れたときのヴィジョン(幻像)を、忘れぬように写真を撮るかのように、言葉に置き換えるというようなやりかたで、文章を書いたりはしないのではないか。文章とは、普通は頭からうんうんなにかをひねり出そうとして書くものなのではないか。

 

ぼくは統合失調症になる前の数年間、かなりまとまった量の文章を書いていた。そのときは、自分にとって大きな経験を、言葉に直接に置き換えるという方法論で書いていたので、書くことは、まったく苦ではなかった。また、自分の目で見たものを表現する場合、文章力はそれほど必要とされない。スケッチしていけばいいだけのことだから。

 

いまは、高橋源一郎が「失語症患者のリハビリテーション」と言ったのとはべつの意味でぼくにも、失語症患者のリハビリテーションはあった。

 

眠剤の影響でぐでんぐでんになっているからか、記事を書きすすめられない。今日はここまでにしておこう。

 

さっきまでは、この記事を書きながら、ベートーヴェンの第九、トスカニーニ、NBCを聴いていて、この曲を通して聴くのははじめてなのだけど、第三楽章がいい。いまは、シューマン交響曲第3番。トスカニーニ、NBC。