「あいだ」について考え続けていきたい

「僕と車とでたすけあっているんだ。簡単に言えば。つまり、僕がここの空間に入る。僕はこの車を愛していると思う。するとここにそういう空気が生じる。そして車もそういう空気を感じる。僕も気持ち良くなる。車も気持ち良くなる」(村上春樹ダンス・ダンス・ダンス 上』、講談社文庫、p246)

 

音楽を聴くとする。それで、ぼくの感情が動くとする。音楽が、ぼくの感情に触れるとする。そうすると、ぼくは満足する。そこに生まれる親密な空気、それを木村敏は「あいだ」と言った。

 

なぜこういうことをいま考えたかというと、いまビル・エヴァンスの『ムーンビームス』というアルバムをかけていて、昔の自分だったら、これを聴いて感動して、そうした感動が同じ部屋にいる家族にも伝わるだろう、ということを考えたから。感情の共有は、「あいだ」が障害されていると、生じない。「あいだ」によって人と人はつながっていると言える。

 

情動の共有ということがなければ、なにもかも味気ない。いま、ビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビイ』をかけている。ぼくがこの音楽を聴いてなにも感じなければ、この音楽はなにも価値を持たない。ぼくがこの音楽を聴いてなにかを感じとれば、ぼくが感動したという事実は、なんらかの形で、他の人たちにも伝達される。

 

村上春樹の小説には、ユング心理学的な問題だとか、統合失調症の精神病理学的な問題が取り上げられているようにぼくは思う。村上春樹はインタビューでも言っていたけど、ユングなど、精神分析の本はあえて読まないようにしているとのこと。精神分析の本を読まないのであれば、統合失調症の精神病理学の本など、まず読んでいないと断じていいだろう。それにもかかわらず、村上春樹の小説のテーマは、一貫して精神病理学や、ユング心理学に接点を持っていると思う。

 

なんとなく、ぼくはこれからも、「あいだ」ということ、情動の共有ということ、人と人がつながるということはどういうことなのかについて、理論的に考えていきたい、と思った。理論的に、と書いたのは、ぼくはそれらを直接に感じることができないから。なぜぼくがそうした能力に欠けているのかということを、言語的に、理論的に理解するということが必要だろうと思っている。そのために必要なのは、村上春樹の小説だったり、木村敏の本だったり、ユングニーチェ河合隼雄の本、鈴木大拙西田幾多郎エックハルトなどの本なのだろうと思う。

 

もう一度確認しておきたいのは、ぼくがいま志向しているのは、自分の「あいだ」を感じとる能力の欠如を、言語的、理論的に自分の頭のなかで整理すること。もちろん、生活をつづけながら、その研究を行う(「研究」と言えるほどたいそうなものではないだろうけど、ライフワークであることは確かだろう)。自分にとって、なにが欠けているのかということをまず言語的に理解することなしに、それを再び取り戻すことはできないだろうとぼくは考えている。言葉ならぬことを理解するためには、言葉を通さないでその理解に到達することを考えるべきか? 実際は、言葉を通さずに言葉ならぬことを理解することは不可能だと、ぼくは考えている。言葉というものの可能性や限界について、ぼくはよく知らないが(詩に関心をもっているのにもかかわらず!)、ぼくは言葉を、少なくとも統合失調症になる以前よりは、信頼しているし、重視している。もっとも、本をまともに読める状態ではないので、「言葉の可能性を信じている」などとたいそうなことを言っているわりには、言葉とのかかわりは浅いと思う。

 

一つ、「理論よりも実践を重視すべきであろう」と考える方もいるかもしれないが、ぼくの場合は、理論即実践であると考えている。自分の置かれている状況に対する正しい言語的理解なしには、どんな生活もありえないだろうと思っている。そして、ぼくは「自分の置かれていた状況、自分の現在置かれている状況に対する言語的理解を深めることが、現在の自分の生活において最も大切なことである」ということを、統合失調症を発症して以来、つまり四年間くらい言っていると思うけれど、まだ終わらないのか、とうんざりしている方もいるかもしれない。ほかならぬぼく自身も、自分の勉強のペースが遅いことは自覚している。一日に10ページも読めないことが多いし、一年前からデイケアに通い出したので、本を読む時間がかなり奪われてしまったから、体力的、気力的にも、読書に向かおうと思えなくなってきたからでもあるだろう。

 

また、この研究を続けるうえで読むべき本もわかっている。上に挙げた、村上春樹木村敏鈴木大拙河合隼雄西田幾多郎エックハルトユングニーチェ、ビンスワンガー、ミンコフスキー、ブランケンブルクあたりは、ピンポイントで、ぼくの知りたいことを書いてくれていると思う。もっと増えるかもしれない(たとえば、トマス・ア・ケンピス、ルソー、内田樹レヴィナスラカンゲーテキルケゴールなど)。この辺の本を読まなければならないということはわかっているのだけど、なかなか簡単に読める内容でもないので、まだまだ理解は不十分だ。

 

また、人の喜びを自分の喜びのように感じること、人の悲しみを自分の悲しみのように感じることが、生きていくうえで最も大切なことであるとぼくは信じているが、木村敏の精神病理学も、この問題の理論化であるとぼくは考えている。木村敏の「あいだ」の障害という概念、「世界との親しさ(の喪失)」という概念、ミンコフスキーの「現実との生ける接触の喪失」という概念も、この問題の理論化であると思う。もっと言えば、西田幾多郎の「純粋経験」や、「行為的直観」、「絶対矛盾的自己同一」というような概念も、この問題にかかわることだと思っている。