日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

内容のある生活を目指すため

久し振りに、うつうつとしているというか、厭世的です。

 

今日は、両親は田舎に日帰りで帰っていて、兄は遊びに行っているので、家にはぼくひとりだけです。明後日から、デイケアが始まります。一週間振りくらいになるのかな。もうずいぶん長いことデイケアに行っていないような感じがするけれども。

 

家で休んでいてもらくちんってわけではないので、デイケアに行くのはいやではない。デイケアに行っていると、気はまぎれる。このうつうつとした感じ、けっこうきつい。でも、以前はこうしたうつうつとした感情はあまりなかったような気がする。うつうつとするということは、感情が多少機能しているということだと思っているので、これは回復なのかもしれないな。

 

デイケアに行くと、就労だとか作業所を目指すことになるので、自分は近い将来、おそらく作業所に通うことになるでしょう。つまり、自分の将来は決定している。デイケアに行くということは、いわゆる社会復帰を目指すというレールに乗っかるということだ。

 

精神病理学者の内海健は、「分裂病者はしばしば働くだけになってしまう」というようなことを言っていた。つまり、デイケアに行くと、社会復帰を目指しましょうということになる。とりあえず、社会復帰すればいいというような。それが目標になってしまう。社会復帰をしても、金にもならない、消耗するだけ、時間を取られるだけ、というふうになってしまったら、それはその人にとって幸せな生活と言えるのかどうか、あやしくなってくる。とくに、作業所は、金にはならないので(時給100円とかいう世界)、あくまでも自分の生活のリズムを整えることだとか、社会復帰への過程として利用するものなのだとか。まあ、デイケアは金を払って行っているわけだから、金をもらえるだけでもありがたいとも言える。

 

それで、いまはおもに料理を作ったり、映画を見たり、話し合いをしたり、スポーツをしたり、栄養講座のようなものを受けたり、麻雀をしたり、音楽鑑賞をしたりというような遊び要素の強いプログラム中心のグループにいるけれど、二月ごろから、就労に向けたグループに移るかもしれない。そこでは、パンを作ったり、喫茶でコーヒーをつくって利用者に出したりする。作業所、あるいは就労への移行を視野に入れた人が参加するグループ。

 

ぼくは当初は、デイケアを出たあとは、本屋などでアルバイトしようかと思っていたけど、ぼくは障害をオープンにして働く以外にないと思っているので(隠して働くのは無理だと思う)、デイケアの担当職員と話していて、それだと本屋のアルバイトは、難しいという話になった。精神障害者を雇う本屋はなかなかないのだと。というわけで、まずは作業所を目指すことが現実的とのことだった。アルバイトを始めることを目標に据えるにしても、作業所に通って、ちゃんと継続的に通所できるかどうか確かめてから、アルバイトを始めることを検討すべきとのことだった。ぼくも、もっともだと思う。そのとおりだ。アルバイトを始めても、すぐにやめてしまったのでは意味がない。

 

それに、アルバイトを始めるということにしても、ぼくはとくに働きたいとか社会復帰したいとか思っているわけではない。ただ、デイケアに通いだしたから、その成り行きでそうした方向に行かざるを得ないというだけで。デイケアに通うということは、社会復帰を目指すということだから。それで、ぼくがそもそもデイケアに通いだしたのは、社会復帰や就労を目指すためではなく、ただなんとなく、自分の生活のかたちを変えてみるのもありかもしれない、と思ったから。四年間、家で療養生活という名のニート生活をしていたから、これ以上家で同じように過ごしていても、意味がないんじゃないか、と思うようになった。それで、デイケアに通いだしてからもう一年が経つけど、いまになって思うのは、あの家で過ごした四年間は、内容的には空虚だったということ。なにをしていたのか、まったく思い出せない。たぶん、なにもしていなかったのだろう。寝たきりではなかったけど、煙草を吸ったり、プラモデルを作ったり、ファイナル・ファンタジーやバイオ・ハザードといったゲームをやっていたのは覚えている。

 

そうした生活と比べてみると、デイケアに通いだしたこの一年間は、内容を伴ったものだと思う。なので、デイケアを出たあとも、また家での生活に戻るのではなくて、いわゆる社会復帰を目指したほうが、生活の内容は充実するのではないかと思う。要するに、消去法的に、作業所などに通ったほうが、生活の内容は充実するだろう、ということ。あの四年間の自宅での療養生活は、自分の人生にとって痛手だった。20代の四年間という貴重な時間を、失った。もちろん、そうせざるを得ない必然性はあったのかもしれない。必要な時間だったのかもしれない。

 

となると、やはり自分は、時間を無駄に過ごすことにあらがうために、社会との接触を保ちつづける必要があるのだと思う。ぼくの場合は、それなりに充実した内容のある生活をするためには、社会との接触を保つことが必要だということがわかった。

 

なので、ぼくはこれからも、社会との接触を保ちつづけるだろう。具体的には、作業所に通うことになるだろう。