本能的推進

今日は昼近くに起きてから、まだなにもしていません。暇の感覚が強くて、かつ無気力でなにもする気が起きないという例の状態です。暇ならなにかすればいいじゃないか、と言われるかもしれないけど、無気力で、なんにもする気が起きないし、なにも楽しくありません。

 

デイケアに行く前の四年間は、この暇の感覚がいまよりももっとひどかったです。五分が過ぎるのも、とても長く感じられました。時間がなかなか過ぎていかない状態でした。デイケアに行くようになってからは、暇がいくらかまぎれるようになり、以前よりは暇の苦痛を感じなくなりました。

 

なにかをしたいという欲求がありません。止まっています。欲求は自分を動かす働きですが、自然な、内側から自分を動かす力が、まったく停滞しています。止まっています。統合失調症の人みんなが、このような停止状態にあるのかどうかわかりませんが、たぶん、こうした欲求を失っていない統合失調症患者もいるのではないでしょうか。となると、この停止状態はなんなのか。いわゆる陰性症状というやつなのだろうか。

 

精神病理学者のミンコフスキーによると、(一部の)統合失調症患者には、本能的推進(エラン・ヴィタール)が失われているとのことですが、ぼくのこの停止状態も、本能的推進の失われている状態といえるんじゃないかと思います。この停止状態は、無意識の働きが顕在化していない状態ともいえると思います。ぼくはかつて、統合失調症になる前の数年間、「影との対決」をしていました。この「影との対決」という語は、ユングによるものです。ユングによると、影との接触が深くなればなるほど、影の表現態であるところの症状は、不可解なものになるとのことです。

 

ぼくの場合は、影(ぼくはこの「影」という言葉を、「無意識」と同じような意味あいで使っています。正確には影と無意識は違う意味なのでしょうが、似たようなものだと思っています。まだユング心理学についての勉強が足りないため、そのへんが曖昧なのです。ユング心理学の用語には、影や、個人的無意識、普遍的無意識、アニマ、アニムス、元型などがありますが、ぼくはこれらの用語をまだ区別できておらず、すべて「無意識」とう言葉で理解しています。)とのかかわりがまだ浅かったころは、過呼吸という症状で、無意識が顕在化していました。無意識というのは、自分の内なる声のことです。最初は過呼吸だけだったのですが、次第に胸のなかがからっぽになってすーすーと風が吹き抜けるような体感幻覚症のようなものが現れました。それから、一次的に目が見えなくなったり、自分の筋肉がむき出しになっていて、世界のナイフに晒されている、というような幻覚が現れました。このころ、すでに統合失調症の前駆期にあったのだと思います。

 

河合隼雄の『影の現象学』には、「影の働きがあまりにも強くなると、完全なる破滅に陥る危険がある」というようなことが書いてあります。河合隼雄は、影との接触の肯定的な面、否定的な面を指摘しています。つまり、影との深い接触は危険なものである一方、影との深い接触を欠いた人生は味気ない、というようなことも言っています。影との接触が危険であるというのはどういうことかというと、影との深い接触には、統合失調症を発症する危険が伴っているということです。生きている以上、深い生き方を志向したいものだけど、深い生き方をするためには、精神病的な世界、狂的な世界へと近づく必要がある、ということが、河合隼雄の主張でした。

 

また、河合隼雄は、村上春樹との対談で、「深い世界に降りてゆくためには、どうしてもトラウマが必要」ということも言っています。鈴木大拙は、大波に揺られる経験が必要だとか、病の体験が必要だということを言っていますが、そうした体験をとおして、人は深い生き方ができるのでしょう。

 

今日は、一ページも本を読んでいません。村上春樹ダンス・ダンス・ダンス』の続きを、読めたら読もうと思います。

 

それで、上に書いたような、影との接触が失われたことが、すなわち主体性、本能的推進を失ったということなのだと思います。ミンコフスキーの言っている本能的推進が失われた事態というのは、すなわち影、無意識との接触が失われた事態だと、ぼくは理解しています。