批判的思考というけれど

よく批判的読書(クリティカル・リーディング)が大切だとか、本の内容をうのみにするな、とか言うけど、ぼくはそうした批判的読書ということができないし、本の内容をいちいち「うのみ」にしている。だって、そうじゃないか。エックハルトの本を読んでいるとして、エックハルトの書いている内容を疑ってかかるなんてことが、自分に許されているなんて思えない。本を読むということは、先生に教えを乞うということだから、自分の考え方と比較して、批判する、疑ってかかるというようなことはできない。なぜか。それは、ぼくはそれだけ無教養で、馬鹿だからだ。

 

とはいえ、どういう本を読むかにもよるかもしれない。ぼくは自分の教養と張り合えるような著者の本は読まない。エックハルトだとか、ニーチェだとか、村上春樹だとか西田幾多郎だとか木村敏だとかとどうして張り合えるだろう? ぼくごときが、これらの著者の本を「批判的に」読むなんて、失笑千万である。批判的に読むだけの頭脳が、ぼくにはないのだ。

 

もっとも、ぼく自身も、自覚していないだけで、批判的に本を読んでいることもあるかもしれない。たとえば、本を読んでいて、「これは違うだろ」とか思うということは、批判的に読んでいると言えるかもしれない。上に挙げた著者たちの本を読んでいても、「これは違うだろ」と思う以前に、理解ができない、話についていくことすらできないことがしばしばだ。話についていけなければ、批判することは当然できない。少なくとも、ぼくはまだなにかを批判できるようなレベルには到達していない。それほど、教養的水準が低いのだ。

 

批判することができないと書いたけど、それは誰を批判するかにもよる。もちろん、この記事だって、「本を読む場合、批判的に読まなければならない、内容をうのみにしてはならない」という考えに対する批判だろう。ただ、ぼくは簡単に批判できるような内容の本は手に取らないというだけなのかもしれない。時間の無駄だから。批判的思考、批判的読書というのは、ある程度の知的水準にある人にしかできないと思う。「大学は、批判的思考を養う場だ」と誰かが言っていたけど、ぼくには縁遠い話だと思う。ぼくには、たとえば信じている思想なり、感情がある。それとなにかを比較したときに、自分の信じている思想、感情と食い違う場合は、それを批判するだろう。たとえば、ぼくは鈴木大拙の思想に共感している。それで、鈴木大拙のことをよく知らないくせに、鈴木大拙のことを批判(あるいは考えなしの非難糾弾)している人がいたら、ぼくはその人の考えを批判するだろう。

 

批判という言葉の意味についてすら考えたことがなかったので、いまこうして改めて考えていると、批判的思考を持たない人はいないのだということがわかった。要するに、自分と違う考えを持った人(つまり、自分以外のすべての人)に対しては、批判的にならざるをえない。自分とは違った考え、感じ方に対しては、批判的にならざるをえないだろう。ただ、批判的であるということは、必ずしも、その考えの違う相手を非難攻撃、糾弾することではない。自分は、自分以外の人間に対しては批判的であっても、その相手の意見を尊重することはできる。誰かが言っていたように、「私はあなたの意見には反対だ、ただあなたがそれを言う権利を、私は命に代えてでも守る」。

 

自分は、どういったことに対して、どのように批判的であるのか、それについて意識してみるのもいいかもしれないな、と思った。ぼくは、確かに読書においては、批判的ではないかもしれない。けれども、それはぼくが批判的能力を持っていないということではない。自分では自覚していなくても、なにかをつねに批判しながら生きている。みんなそうだろう。また、ぼくは自分にとって重要な著者である、村上春樹河合隼雄エックハルト西田幾多郎鈴木大拙木村敏、ミンコフスキー、ブランケンブルクなどの本を、批判的に読むということはないと思う。自分と同じ人間はいないわけだから、どんなに自分と共通する部分が多い相手でも、自分と重ならない部分はつねに残されているだろう。重なる部分が多ければ多いほど、重ならない小なる部分が、永久の疎隔であると感じられるほど、大なるものとして感じられることもあるだろう。