体感幻覚症、症状において自分を見いだす

統合失調症を発症する少し前から、胸が空っぽになっていてすーすーするという苦しい感覚がずっとあるのですが、ここ最近は、四週に一度、病院に行くとき以外は、あまり感じていませんでした。これは症状的には体感幻覚症(体感異常)というものに当たると思うのですが、いま久し振りにこの感覚があります。胸のなかを風が吹いているような感じで、息がしづらいです。

 

煙草を吸うことで、多少この感覚が紛れている感じがするので、煙草はずっと吸っています。一日に10本から15本くらいですが。胸のなかの空っぽが埋まることはないです。

 

いや、デイケアに通っていると、胸の空っぽ感は、多少軽くなる感じがします。昨日から四連休なので、空っぽ感が現れだしたのかもしれません。

 

今日も、本を読むくらいしか選択肢がないのですが、あんまり読む気がしません。

 

ぼくは昔、統合失調症を発症する前、上に書いた体感幻覚症や、過呼吸など、表面に現れた症状を通して、自分の欲望を探っていました。自分が深いところにおいてなにを望んでいるのか、症状はそれを探るための手がかりでした。なので、薬物療法によって、症状を対症療法的に一時的に隠蔽することは、自分の欲望、つまり自分自身を見失うことでもありました。なので、そういう意味で、ぼくは薬物療法を拒否していました。

 

症状において、自分を見いだす。ぼくの主治医は、こうした姿勢を否定はしないので、患者の主体性を尊重する医者だと思います。創造的退行とか言いますが、一部の神経症患者は、症状を禅の公案のように捉え、症状によって自分を見いだし、より深い生き方を志向します。これは東洋的というか、森田療法ユング心理学、禅の理論に親和的な姿勢だと思います。河合隼雄の本に、「治してもらうためにここに来ているのではない。ただ、ここに来るためにここに来ているのだ」というようなことをいうクライアントが登場しますが、こういう「治らなくてもよい」という考え方、姿勢を取ることで、より深い生き方ができるという患者たちもいるのだということを、精神科医はみな認めるべきでしょう。

 

それで、上に書いたように、症状はぼくにとってメッセージだったのですが、統合失調症になってから、症状はメッセージ性を失いました。というか、症状がメッセージ性を失ったということそのことをもって、自分は統合失調症を発症したのだというふうに理解しています。この症状がメッセージ性を持たなくなったということが、すなわち「あいだの障害」であり、「現実との生ける接触の喪失」です。