日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

落ち着かなさ

ベーメ小論集』を何ページか読んでみた。なにが書いてあるのかまったくわからないんだけど、読んでいて心地いい。いい音楽を聴いているときのよう。

 

明日は、ほっともっとの弁当でも食べようと思う。ぼくはほっともっとの弁当はそんなに好きではなくて、かまどやの弁当のファンだったんだけど、ぼくの家の近所のかまどやは、一年前くらいにつぶれてしまった。これは、かなりショックだった。オリジン弁当のメニューからとんとろ丼が消えてしまったときと同じくらい、ショックだった。かまどやのメニューは、ほとんど制覇していたくらいに、かまどやの弁当が好きだったのだけど。また、からめんたいが食べたい。

 

ところで、ぼくはネット依存症なのかどうかわからないけど、家にいるときは、パソコンが自由に使える状態にないと、落ち着かない。たまに親がパソコンを使っていると、煙草を吸いに行ったり、家のなかを歩き回ったりしなければならなくなる。というのも、たとえば居間のソファーに座って本を読むとか、そういうことができない。家のなかで本を読めるのは、パソコンの前にかぎられている。居間にはソファーがあるけど、ソファーに座ることはまずないと言っていい。もっと自由にいろんな場所で時間が過ごせればいいんだけどね。こんなだから、デイケアにも最初、通えるかどうか自信がなかった。電車のなかで本を読むのだって、最近やっと少しずつできるようになったくらいだし。落ち着かないというのは、ぼくの主症状というか、いちばんの問題の一つだ。でも、いまはデイケアに週三日(月曜午前、火曜一日、木曜一日)通っているから、家のパソコンの前以外の場所でも、頑張ればそれなりに時間が過ごせるということがわかった。また、デイケアに通っていて、いろんな人と話すようになったので、自分の話題の少なさを意識することは減った。デイケアに通う前は、自分の話題の少なさから、人と話すことについて、ものすごく苦手意識があった。デイケアに通う前は、四年間、ひたすら煙草を吸うかたまに本を読むかくらいで、なにもしていないも同然だったので、話題がないのは当然とも言える。デイケアに通いだしたことで、人と話すことについての苦手意識はある程度克服されたので、そういう意味でも、デイケアに通いだしたのは意義のあることだと思う。でも、デイケアに来ている人以外が相手だと、どうかわからない。たとえ病人相手であっても、人と話すことはとても大切だということが、わかった。

 

統合失調症になる以前は、人と話してなんになる、と考えていたし、べつに話せるようになる必要はないと思っていた。ぼくは音楽をやっていたし、音楽の演奏をとおして人とつながれれば、それで十分だと思っていた。でも、ぼくは統合失調症になり、音楽が演奏できなくなったので、違う生き方を新しく身につけなければならなくなった。でも、ぼくがデイケアでしている会話というのは、当然、生と死を賭したぎりぎりの感情表現ではない。天気の話をしているのと大差はない。でも、天気の話をしたり、つまり世間話をする能力というのは、社会のなかで働いて生きていくためには、ぜったいに必要なものだと思う。ぼくも、変わってきたものだな、と思う。常識的な人間に近づきつつある。というか、そもそも、デイケアというのはそういう場所なんだよな。芸術家を育てる場所ではない。