時間と自己、木村敏祭り

あと、もう一つ驚きだったのは、今日、ある通所者の人が、木村敏の『時間と自己』を手に持っていたこと。それで、「どういった経緯でこの本を手に取ったのですか」と訊いてみた。すると、「中公新書が好きなので、いろいろと手に取っているんです。ブックオフで、タイトルに惹かれて買いました」とのこと。それで、ぼくは、自分が木村敏の本のファンであること、それでこの『時間と自己』は、難しい本の多い木村敏の本のなかではいちばん読みやすいものの一つで、これを木村敏の本一冊目として手に取ったことは、とてもラッキーなことだったと思う、と言った。

 

でも、『時間と自己』というタイトルに惹かれて買うというのは、すごい。ぼくだったら、このタイトルからどういうイメージを持つだろうか。時間にしても、自己にしても、あまりにも根源的な問題なので、ものすごく深遠で難しそうだな、という感じか。タイトルで言ったら、ハイデガーの『存在と時間』と同じくらい、取っつきづらそうだと思う。もうタイトルからして難しそうだものな。でも、木村敏の『時間と自己』は、新書なのもあって、とてもわかりやすい。内容的には、時間という概念、自己という概念について根本的に掘り下げていくというものではなくて、統合失調症(分裂病)という病気における、三つの時間に対する構え、つまりアンテ・フェストゥム(分裂病の人の時間感覚。未来先取り的)、ポスト・フェストゥムうつ病の人の時間感覚。過去を重視する)、イントラ・フェストゥムてんかんの人の時間感覚。永遠の現在的。現在にあふれている状態)について書いてある本なので、かなり具体的な問題を扱っていると思う。

 

とは言っても、ぼくはこの本は一回しか通読したことがないので、詳しい内容、自分がどういった文章に感激したのかは、忘れてしまった。また引っ張り出してみれば、赤線が引いてあったり、ページの角が折ったりしてあるので、わかると思う。

 

この本の内容で覚えているのは、つまり最も印象に残っているのは、「祝祭の精神病理」という章で、イントラ・フェストゥムについて論じているところ。アウラ体験(一種の神秘体験。現在にあふれている状態)についても触れていて、ドストエフスキーの『悪霊』に出てくるキリーロフのアウラ体験について、あとジャン・ジャック・ルソーの『孤独な散歩者の夢想』のなかにあるアウラ的記述について、書いてある。これが、いちばん印象に残った。

 

それで、デイケアのその人にも、自分はこの「祝祭の精神病理」という章がいちばんおもしろかった、ということを話した。「この本を理解するうえで、なにか読んでおいたほうがいい本はありますか」というようなことも訊かれたけど、「少なくとも木村敏の本のなかではいちばん読みやすく、一般向けの本だから、この本を木村敏の本一冊目として手に取ったのは、ラッキーだったと思う。すごい偶然だ」と答えた。質問に対する答えになっていないけど。たとえば、木村敏一冊目として、『自己・あいだ・時間』、『分裂病と他者』、『分裂病の現象学』あたりを手に取ると、挫折する率は高いと思う。あと、落とし穴は『心の病理を考える』という岩波新書かな。これは、新書だからと言って気軽に手に取ると、痛い目を見るというか、とても新書の内容ではない。かなり歯ごたえがある。

 

なんか、久し振りに木村敏祭りをしたくなってきた。数日前に漱石を中心に読むべきと言ったばかりだけど。また、昨日引っ張り出してきたフーコーも、読み進められるような感じがした。木村敏の本は、15冊くらい持っているけど、まだ何冊か通読していない本がある。よし、木村敏の本を、どっさりと居間のパソコンの横に積んでみよう。

 

そういえば、さっき鈴木大拙の『日本的霊性 完全版』、『新編 東洋的見方』を久し振りに引っ張り出してみたけど(両方とも愛読書)、いまふと思ったんだけど、木村敏鈴木大拙とか、エックハルトとかの宗教家、神秘家に触れたことはないような気がする。なにかで触れているのかな? 木村敏は、西田幾多郎ハイデガーの哲学の方法論を精神科の臨床に持ち込んだ人とされているけど、西田つながりの鈴木大拙エックハルトなどには直接は言及していないような気がする。神秘主義とは、あくまでも距離を取っている印象。

 

木村敏の本でいちばん感動したのは、『分裂病の現象学』だった。芸術論とも解釈できる部分があって、しかもそれは「愛」について語っているとすら、ぼくには思われた。もっとも、木村敏の扱っている問題は「あいだ」だから、木村敏の文章はだいたい芸術論的に解釈できるものだと思う。ここ数か月木村敏の本には触れていないので、あやふやだけど。