キリストにならいて

今日もデイケアでした。帰りに、通所者の人と、一時間以上話した。彼はキリスト教者とのことで、ぼくは聖書について少し話を聞いた。聖書のどういうところから読むべきかなどについて。新約聖書福音書は、ヨハネ福音書から読むのがいいのだと。旧約聖書の創世記は、ヨセフが出てくるところから読むといいのだと。

 

それで、家に帰って、さっそく本棚から岩波文庫ワイド版の福音書岩波文庫版の創世記、トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』(岩波文庫)、あとついでにセネカ『人生の短さについて』を引っ張り出してきた。

 

それで、いま『キリストにならいて』を久し振りにぱらぱら読んでいたら、とても感激した。

 

1 (キリスト)わが子よ、自分の感情を信じてはいけない、それは今あっても、すぐ別なものに変るのだから。人が生きている限りは、否応なしに、かわりやすさに委されていて(ヨブ・一四の一一)、今うれしがっているかと思うと、すぐ悲しみに陥るという具合なのだ、安心と思うと、たちまち心をかき乱される、今信心をたもつと見れば、たちまち信心を失う、熱心につとめると思うまに、嫌気がさして来、気の重いのが、すぐ軽くなるというようにだ。だが、知恵があり、霊においてよく訓えられた者は、このような移り気を超越する、自分の心中感じることや、不安定さの風がどちらに吹いていくかは心にとめずに。それでかえって、自分の心の志向するところが、残りなく正しい、望ましい方向へと向かっていくようつとめるのだ。なぜというと、こうしてはじめて、さまざまなできごとの間にも、一筋な志向をこめた眼を私へとまっすぐに、じっと揺がずに向けつつ、いつも変らず、動揺せずにいられようから。

 

2 ところで、志向の眼がきよらかであればあるだけ、人はいろいろなあらしの中をそれだけ確固として歩いてゆけよう。だが、多くの場合に、この純らかな志向の眼も曇りを帯びる、というのも、出くわすかぎりの何かの愉しみに、すぐとその眼は転じられるからだ。それで、自己の利益を求めるという欠点から全く自由な人が見つかるのは、ごくたまさかである。こういうわけで、昔ユダヤの人々が、ベタニアへ、マルタとマリアを訪ねて来たのも、イエスのためばかりではなく、ラザロを見るためでもあったのだった(ヨハネ・一二の一九)。それゆえ志向の眼は、一筋にまた真直と(マタイ・七の三―五)、しかも間にあるいろんなものをみなのり越えて、私へと向けられていなければならない。(トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』、岩波文庫、p165-166)

 

 

これを読んでいると、仏教もキリスト教もないな、と思う。だって、上の文章は、まさに禅の奥儀だもの(少なくともぼくの禅理解では)。鈴木大拙は、仏教もキリスト教も回教も儒教道教も根底においては禅である、と言っていた。上の文章を読んでいて、大拙が言っていたのはこういうことか、と思った。

 

自分の所存では、禅は一切の哲学および宗教の究極するところである。すべての知的努力は、もしそれが何か実際上の効果をもたらすものであるとするならば、ついには禅に到らねばならぬ。否、むしろ禅から出発せねばならぬ。一切の宗教的信仰もまた、もしそれが、いやしくもわれわれの実際生活において、有効に、かつ生き生きと働きうるものであることを立証しようというのなら、禅から生まれ出でねばならぬ。だから禅は、必ずしも仏教徒の思想と生活の源泉であるにとどまらない。それはキリスト教の中にも、回教の中にも、道教の中にも、そしてまた実証主義的な儒教の中にさえも、多分に生きている。これらの宗教や哲学がみな、活力に満ち、精気にあふれて、その有用性と効力とを保持しているのは、その中に”禅の要素”とでも呼ぶべきものが存在するからである。単なる学者気風や聖職者気質は、けっして生きた信仰を生み出さない。宗教は、何か、内に向かって突き進むもの、力をふるいたたせるもの、働きをなし得る力あるものを必要とする。(鈴木大拙『禅』)