図書館

図書館に行ってきた。吉本隆明『心的現象論序説』、『柄谷行人蓮実重彦全対話』、中井久夫『「伝える」ことと「伝わる」こと』を借りてきた。

 

中井久夫の横に木村敏の『分裂病の現象学』のちくま学芸文庫版があった。この文庫版は、2012年に出たもので、ぼくは発売後すぐに買った。もう三年も経つのか。木村敏の本が書架に置いてあるのを見て、びっくりした。木村敏の本は市内の図書館に10数冊あるけど、全部閉架の書庫にあったように思うから。この本は2012年に出た新しい本だから、開架に置いてあったのかな。しかも、驚くべきことに、かなり読み込まれたあとがあった。何人もの人によって読まれたあとがあった。あの本、そんなに人気があるのか。

 

ルソーの『エミール』の下巻の終わりのほうを立ち読みして、これはやはりすごいな、読まないといけないと思った。上巻だけ持っていて、途中まで読んで止まっている。

 

また、図書館で、とてもかわいい女の子を見た。女の子と言っても、40歳くらいの人だけど。ナイキのスニーカーに、ジーンズに、ジャージだった。顔は丸顔で、眼鏡をかけていた。黒髪だった。表現力がないので、これくらいしか説明できない。見ていて安心するような風貌だった。かんぺきと言ってよかった。少なくとも、アイドルとか女優にいるようなタイプの人ではなかった。いわゆる、「普通」の人。

 

ところで、ぼくは以下のようなタイプの会話をしがちだと思う。

 

ぼく「ビートルズの『リボルバー』はあんまり聴いていないんだよね」

相手「そうなんですか」

ぼく「それでも、まったく聴いていないというわけではなくて、50回くらいは通して聴いていると思うけどね」

 

解説すると、まずぼくは『リボルバー』をあまり聴いていない、とへりくだる。でも、「あんまり聴いていない」というのを、2、3回しか聴いていないというふうにとられるのは、自分の矜持が許さない。だったら、最初から『リボルバー』はそれなりに聴いている、くらいに表現したほうがいいような気もする。上の会話のようなやり方は、まず自分を小さく見せたかと思いきや、その次に反撃するというもの。まあ、でも実際、『リボルバー』はそんなに聴きこんだ印象はない。100回くらいは聴かないと、あまり聴きこんだという実感は出てこない。それでも、聴いた回数は関係ないこともある。たとえば、チック・コリアの『カモメ』などは、この10年間で聴いた回数はせいぜい50回程度だろうけど、ちゃんと聴いたという実感がある。

 

いま読んでいる木村敏臨床哲学講義』は、内容的にはあまり充実していないようにぼくは思う。こんなことを言ったら怒られるかもしれないけど、木村敏はこんなものじゃないよ、と思う。講義だから退屈なのかというと、そうでもないと思う。たとえば、木村敏の『自分ということ』という本のなかに、「「間」と個人」という市民講座の原稿?が載っているけど、これはもうものすごい密度の内容。しかも、市民講座の原稿だから、とても読みやすいし、哲学の動機について、ノエマ(もの)、ノエシス(こと)、離人症、間(ま)と音楽の演奏の関係について、コモン・センスについて、など、木村敏の理論において重要な用語についてのわかりやすい解説が、数十ページにおさめられている。

 

というわけで、この記事を読んでいる人のなかで、もし木村敏の本を読んだことがない、かつ木村敏の本を読んでやってもいいよ、という方がいたら、『自分ということ』(ちくま学芸文庫)のなかの「「間」と個人」という章を読んでみることを勧める。図書館にあるかもしれないし、なくても、アマゾンで1080円で買える。木村敏の本にしては安価だと思う。全体で200ページ程度の薄い本なので、そういう意味でも、導入にはもってこいな気がする。文庫本の裏の説明書きを読んでいたら、「木村哲学への最初の一歩」と書いてあった。やはり、入門向きなんだな。

 

アマゾンを見るかぎり、『臨床哲学講義』がいちばん上のほうに表示されているけど、木村敏の本には、もっとほかに読むべき本はたくさんある。講義というからにはわかりやすいのだろう、と思って手に取る人もいるかもしれない。たしかにわかりやすくはあるけど、『臨床哲学講義』よりも、『自分ということ』を先に手に取ることを勧める。『臨床哲学講義』をはじめに読んで、「木村敏はこんなものか」というふうに見限ってほしくはない。

 

また、いま木村敏『関係としての自己』をぱらぱらやっていたら、そうだよ、これが木村敏だよ、と思った。おそるべき内容の充実。