生命的なもの

なぜ自分が、生命的なものとの接触を失ってしまったのかについて、言語化するために、ぼくはブログを書いていると言える。まず、この「生命的なもの」とはなにかについて、上手く言語化ができない。また、この「生命的なもの」との接触を失うというのはどういうことなのかについても、上手く言語化ができない。というのも、おそらく前例がないからだろう。誰もこの問題について書いていないから、他人の表現を借りることもできない。

 

正確には、この問題について書いている人は誰もいないというわけではなくて、「生命的なもの」について書いている人はたくさんいるけど、これを失ったと書いている人がいないということ。たとえば、「生命的なもの」について書いている著者の名前を列挙してみると、西田幾多郎鈴木大拙ユングニーチェエックハルト木村敏、ミンコフスキー、リルケなど。この「生命的なもの」を失うということがどういうことなのかについて書いているのは、木村敏、ミンコフスキー、ニーチェ河合隼雄など。自分の知っている範囲内では、これくらい。もっとも、「生命的なもの」を問題にしている人は、詩人や画家、音楽家にいくらでもいると思う。ただ、それを失った人の話はほとんど聞かない。というのも、「生命的なもの」を失うということは、統合失調症にならないかぎり起こりえない。となると、統合失調症になってしまったとされている芸術家について調べればいい。病跡学の出番というわけ。筆頭に挙げられるのは、舞踏家のニジンスキー、詩人のヘルダーリンなどだろう。プログレッシブ・ロックバンドのピンク・フロイドの中心メンバーだったシド・バレットも、統合失調症だろう。この辺は疑いえないと思う。あと、画家のムンク

 

ぼくがミンコフスキーの「現実との生ける接触の喪失」という概念、木村敏の「世界との親しさ(の喪失)」とか、ブランケンブルクの「自然な自明性の喪失」といった概念をよく引き合いに出しているのは、これらの概念が、最も自分の「生命的なもの」との接触の喪失の事態を上手く説明していると思うから。もちろん充分とは言えないけれど。