日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

ガルシン

ガルシンの短編集をアマゾンで買った。ガルシンも、統合失調症とされている。若くして自殺した。

 

いまは、ルソーの『エミール』を読み進めている。

 

今日は、とくになにもしていない。本も10ページくらいしか読んでいない。なんにもやる気が起きないんだけど、焦燥感が強く、じっとしていられないといういつもの状態。

 

明日もデイケア。ぼくの人生の目的は、デイケアに通い、おそらく作業所に通うことだ。言い換えると、暇をつぶすことが、人生の目的だ。主体的なものがない。とくにこれをしたいというものはないし、他人とつながりたいとも思わない。でも、作業所に行っても、金が入るわけではないから、ずっと作業所にいるわけにもいかないだろう。障害年金だけでは暮らしてはいけないだろう。でも、金をえるために働いても、就労能力ありということになって、障害年金が打ち切られるおそれもある。このシステムがよくわからないんだよな。実際、就労能力がないから障害年金をもらっているのに、それだけでは暮らしていけない。だから、働けなくても、無理してでも働かなければならないんだけど、そうすると年金が打ち切られる。年金が打ち切られたら、年金をもらっているときよりも収入は減る。無理して体に鞭打って働いても、それでは意味がない。月に六万も働いて稼げないだろう。つまり、障害年金だけもらっていても暮らしていけない。無理して働いても、暮らしていけないということになるけど、障害年金はほんとうに打ち切られるんだろうか。就労を始めても、障害年金はもらい続けられるんだろうか。こんど主治医に訊いてみよう。とても大切なことだから。

 

いま調べてみたところ、就労を始めても、障害年金は打ち切られないとのこと。よかった。

 

木村敏臨床哲学講義』を読み終えた。

 

自分にとって、人生の目的はなにか。統合失調症になる前の自分にとっては、人生の目的ははっきりしていた。それは、世界との、人間との親しさを再び感じること。人間とつながること。統合失調症になってからは、これらは不可能になった。そもそも、世界、人間との親しさを一時的にであれ感じられなくなったことをもって、ぼくは自分が統合失調症を発症したのだ、というふうに理解している。欲望がなくなってしまったこと。無意識的なものとの接触が失われたこと。欲望がなくなってしまったこと、世界、人間との親しさが感じられなくなったことなど、ぼくの問題にしていることは、ミンコフスキーの「現実との生ける接触の喪失」という概念一つで、だいたい説明できる。

 

デイケアでは、担当の職員の人から、いま自分がなにをしたいのか、これからなにをしたいのか、について記入用紙に書くように言われたけれど、これには困ってしまった。いまなにがしたいのか。本が読めるようになりたい。感情が動くようになってほしい。でも、こんなのはデイケアに通うことで取り戻せるものではない。なので、担当の職員の人には、「時間の経過による自然治癒、自然軽快を期待する。そのあいだに、家でひとりでなにもしないで過ごすよりも、デイケアに通うなどして、手足を動かしているほうがいいと思う」と伝えた。でも、ぼくは自然治癒、自然軽快について、そんなに期待していない。少なくとも、自分の能力が戻ってきてからなにかしようとは思っていない。それでは、遅すぎる。自然治癒、自然軽快する前に、もう手足を動かしていなければならない。とにかく、20代のうちの四年間を、家でひとりで無為のうちに過ごしたということが、痛手に感じられる。

 

はっきり言って、自分自身からロストしている。どうすれば、自分自身を再び見出せるのか。ないものを再び見出すことはできないだろう。自分自身というものはまだあるのだろうか。ないということはわかっている。

 

人は、ぼくが「現実から逃げている」というふうに言う。離人症という病気についてなにも知らない人の発言だ。現実は、追っかけても、どこにも見出せない。また、向き合うべきは、自分自身だ。ぼくは自分自身から逃げたことはない。自分自身も、追っかけてもどこにも見出せない。人のことをどうこう言うのは、とても簡単だ。自分の基準で都合よく解釈して、自分には理解できない部分については見て見ぬふりをし、好き勝手に言葉をはさむ。こうした暴力にはうんざりしている。