できることとできないことを区別するべき

ぼくは幻視詩のスタイルで文章を書くことはできなくなったが、これはぼくが木村敏のいうイントラ・フェストゥム的状態から、非イントラ・フェストゥム的な状態に移ってしまったことと、深い関係がある。ぼくの場合は、詩、というか文章は、イントラ的な事態にあったからこそ、生まれていた。なぜイントラ・フェストゥムなどという専門用語を使わなければならないのかというと、たとえば、感情が失われたから文章が書けなくなった、というふうにも言えるのだけど、これだとあまり正確な表現じゃないと思うんだな。感情が失われた、などというと、感情あるじゃん、というふうに言われることもある。感情のある種の機能が失われた、というほうが正確だと思う。それはやはり、現在性というか、以前は現在にあふれていた。現在しかなかった。ヘルダーリンは自らの詩作において、「生の生け捕り」をしていたとされているけど、まさにぼくは生け捕りをするということがなくなった。生け捕りするべき生そのものが、観察されない。「生の生け捕り」は現在においてなされる。ぼくは文章はいまはほとんど書かない。このブログにたまに書く以外には、文章を書く機会がない。しかも、このブログには「現在」については書いていない。「生の生け捕り」的な要素はまったくない。

 

また、木村敏は、寡症状性統合失調症は、イントラ的体験が最も乏しい事態なのだと言っていた。ぼくの体験した変化を表現するさい、このイントラ・フェストゥム的な状態から非イントラ・フェストゥム的な状態への移行という表現が、最も正確だと思う。ぼくは統合失調症になったことを歎いているというよりは、イントラから非イントラに移ったことを歎いているのだと言っていい。ほんとうは専門用語を使わないで説明できればいいんだけれど、他に正確な表現が見つからない。感情がなくなったと言っても、それは正確な表現ではない。感情の現在性がなくなっている。また、感情の現在性なんてものは、われわれ健常者にもわからんよ、という人もいるかもしれない。少なくとも、即興演奏をするうえでは、この感情の現在性なしには不可能と言える。即興演奏は、「現在」、あるいは瞬間の芸術だから。現在感じていることを表現できなければならないし、そのためには現在が感じられなければならない。もうすでに頭のなかでできあがったものしか表現できないというのでは、だめなわけだ。次から次へと、現在があふれ出してくるのでなければ。

 

もちろん、現在の問題だけではない。頭が全然回らない、極端に疲れやすいということ、この二つが、働くうえでは最も問題だ。

 

後悔のないように、深く生きるというためには、つまり宗教を問題にするうえでは、上に書いた「現在」が必要不可欠だ。その現在がないとすれば、深い生き方は諦めるしかない、しかし、表面的に、自分で生計を立てる、表面的に生活に適応した振りをするうえでは、頭が回らなかったり、極端に疲れやすいのは、大きな障害となる。深い宗教的な生き方は、もう期待していない。なら、表面的に社会生活を送ることのみを考えるべきだけど、それがなかなか難しい。頭が回るようになれば、疲れやすさが軽減すれば。

 

あと、深い生き方は諦めているけど、これをもって人生を諦めているのだと捉えないでほしい。人生を諦めているんだったら、それは生きたくても生きられない人に対する侮辱だ、というふうに言うのは、それはぼくに対して死ねと言っているのと同じだ。深い宗教的な生き方を諦めるのは、人生を諦めるのと同義ではない。よりよく生きるために努力することもできない状態にある人もいるのだということを、理解してほしい。よりよく生きるために努力できないやつは死ぬべきだという主張は、まったくの暴論だと思う。まったくもって楽天的で、現実を見ていない。

 

発症前と同じ状態に戻ることを期待するべきではない。なぜ、これが、人生を諦めているということになるのか。

 

そんなことを言うんだったら、精神病院に行って、そこで「おまえらは人生を諦めているんだから、みんな死ね」とでも講義すればいいじゃないか。