まんがで読破シリーズ

ほんとうに人生を投げていれば、本を読むこともないだろう。自分の過去について、現在自分の置かれている事態について理解しようとすることもないだろう。実際、過去について、本を読んで理解したところで、現在が変わるわけではないから、意味がないんじゃないかと思うこともある。でも、人生を投げたくはない。だから、少しずつ、自分の置かれている状況、置かれていた状況について理解するために、必要な本を読み進めている。

 

ところで、「まんがで読破」というシリーズがある。このシリーズについては、以前にユング『分析心理学 自我と無意識』、西田幾多郎善の研究』の漫画版を読んでみたことがある。ユングのほうは、統合失調症を発症する危険の高い時期、いわゆる「夜の航海」の時期について書かれてあったり、とてもおもしろかった。

 

ここに暮らしている間… 私は自分が「限りなく本来の自分である」と感じられる… もちろん 家族や社会とたずさわる日常は 私にとっては「現実」と向き合う大切な要素である だが私は どこかでそれらに適合するために 自分の「顔」を「演出」していたように思う そういえば たしかチュニジア旅行のときにも… アラブ人たちが 白人に接するときの態度に 我々のいう「東洋的静穏」や「無感情」といったものがある 私にはそれが「仮面(ペルソナ)」のように思えてならなかった その表情の下には 白人に対するいわれのない いらだちや昂奮が隠れていたとしても 不思議ではない だがこれは 我々にも言えることではないだろうか…? 我々は現実社会へと適応する際に その社会に適した「役割」を演じている… つまり意識に「仮面」を貼りつけているのだ これは多くの人が 意識的に日常で使い分けることができるものだろう だがそれは 間違っても 本来の自分ではない それらは周りの環境が必要性を生むのであって それを知らずに「仮面」をつけ続けていると 本来の自分を見失う結果となる 「仮面」は本来の自己を守る人格であると同時に―― 逆に本来の自己を失ってしまう危険をはらんでいるのだ(『まんがで読破 ユング 分析心理学 自我と無意識』)

 

上に挙げたのは、限りなく統合失調症に近い感覚だと思う。ぼくにも覚えがある。

 

無意識の深みへ導くという不確かな道は 現実世界への架け橋を失いかねない危険なことであった そのためにニーチェは足場をなくし内的世界のとりこになってしまったのだ(『まんがで読破 ユング 分析心理学 自我と無意識』)

 

それで、『善の研究』の漫画版は、ちょっとひどかったと思う。西田がさだまさしにしか見えなかったし。いや、でも西田幾多郎をちゃんと読もうという気にさせてくれるという意味では、じゅうぶんなのかな。

 

というわけで、まんがで読破シリーズを一通り読んでみたくなった。まんがで読むくらいだったら、原書に当たったほうが早いよ、と思っていたけれど、まあ漫画だったらすぐに読み通せるし、読んでおいて損はないかもしれない、と思うようになった。