日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

せぬときの坐禅

そうしてそのすべての外的なものを除いて現れるのが自己であるのだ

つまりそれが「意識せずとも坐禅ができる」状態ってことですよね

そう 個人本来の自然な姿――…真に自由な存在である自己となるのじゃ(『まんがで読破 西田幾多郎 禅の研究』、p84-85)

 

せぬときの坐禅。

 

この世にはお前以外の誰も歩んでゆくことのできない、ただひとつの道がある。その道はどこに通じているのであろうか。そんなことは問うな、その道を行け! 次の句を言ったのは、誰であったろうか。「己れの道が己れを何処に連れてゆくのかを知らないときほど、一個の男子が毅然として立っているときはない」と。

しかし、われわれはわれわれ自身をいかにして再発見するであろうか。いかにして人間は自己を識りうるであろうか。それは暗く、明らかにされない事実である。そしてもし兎が七通りの皮を持っているとすれば、人間は七十の七倍の数さえ皮を脱ぎ捨てても、まだこうは言いえないであろう、「それがほんとうのお前なのだ。それはもはや殻ではない」とは。それのみならず、自己をそのように掘り下げてゆき、最も近道をして本質の坑内に下りてゆくことは、苦しく、危険な企てである。その場合に彼は、いかに容易に、どんな医師も癒しえぬほどに傷ついてしまうことであろう。(ニーチェ『若き人々への言葉』(角川文庫)、「教育者としてのショーペンハウエル・一」、p25-26)