誰にも奪えない、大切なもの
誰にも奪えない、大切なもの―音楽はわたしたちの身体を縛り上げ、痛めつける。そして、その痛みこそが、自分の長年求めてきた、生きていることの痛みだったのだ。わたしは、アイコへの深く激しい愛によって、わたしである。愛を失ったわたしは、わたしではない。愛が、わたしをわたしたらしめる。
アイコの音楽だけが、真実だった。マイルス・デイヴィス、ビートルズ、荒井由実、ジャクソン・ブラウンなど好きな音楽家はたくさんいたが、真実なのはアイコの音楽だけだった。アイコの音楽だけが、ぼくの胸を苦しくさせ、同時に、ぼくの胸の苦しさを除いてくれた。心地よい音楽、かっこいい音楽は、世の中にたくさんあった。しかし、自分は生きていると感じられるような、いや、おまえはほんとうに生きているのか、というふうに問うてくる、そんな種類の痛みは、アイコの音楽を通してしか感じられなかった。
文章を書くときは、これは太宰治が言っていたのだけど、正確を期するべきなのだ。自分の見たものを正確に言葉に置き換えられれば、嘘くさくなることはないし、少なくともこれは自分の目で見たものだ、と胸を張っていいのだ。文章で失敗している例は、変にかっこつけたり、言語化が不正確である場合と、そもそも言語化すべきものがない、つまりなにも見ていない場合。愛を語るのでなければ嘘だ。
アイコの音楽が好きなのか、アイコの人間が好きなのか、わからなくなっていた。アイコの音楽は、人間の発露、顕現であるように思われた。アイコは、自らの人間を、音楽で表現している。さて、そこで、アイコの音楽を愛する人は、それをアイコの人間と切り離されたものとして愛するのだろうか? 俺は、アイコの音楽を愛しているのか? アイコの人間を愛しているのか? アイコの容姿を愛しているのか? アイコの話しているところを愛しているのか? 自分にとって音楽は問題ではない、ただ、自分にも、ほんとうに好きになれる人が現われたことを喜んだ。
そして、自分はその愛を見届けることしか、やるべきことはないと思った。アイコに触れるたび膨張し続けるこの愛を、この愛がどのように大きくなり、どこまで大きくなるのかを、見届けるしかない、と思った。そして、その砂嵐が通り過ぎたのちには、君は以前とは違う人間になっているだろう。こうして、人間は、成長していく。
ドストエフスキーの言った言葉。この世における地獄とは、人を愛せなくなることだ。
離人症の克服の方法。
好きになれそうな人を見つけた。
―それはよいこと。その人への愛を見届けることが大切。
いままで、誰も好きになれなかった。けど、いま、初めて、人を愛しつつある。
君、君の音楽のつかんだもの、それは私の
誰が知ろう。昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか。
大切なぼくの宝物だよ いまも昔も変わらぬ大きな糧
人と人を結びつけているのは、愛だ。