コンプレクス

デイケアに通っていて気づいたこと。ぼくは音楽についての知識や理解の深さ、本についての知識や理解の深さにおいて、他の人よりも優位に立っていると思いこみたいのかもしれない。これはいわゆるコンプレックスというやつなんだろうけど、音楽について言えば、コンプレックスはほとんどない。それなりに音楽を知っていると思っているし、昔は演奏においてかなり評価もされた。自分ほど音楽を深く聴いている人は世の中にほとんどいないと思っていたし、いまでも、ぼくは統合失調症を発症する前の数年間は、とても深く音楽を聴いていたのだと思っている。いま現在は、音楽はほとんど、あるいはまったく聴き取れないけれど。

 

まあそういうわけで、音楽についてはあまりコンプレックスはない。ぼくがコンプレックスを持っているのは、知的分野においてだな。自分は馬鹿だということがある程度はわかるんだけど、中の上くらいだとは思っているし、この「中の上」という評価が、まさに自分の劣等感だとか優越感をあらわしていると思うんだな。なぜ知的領域において劣等感と優越感が複雑に混ざり合っているのかというと、ぼくは高校のときに勉強を頑張って、早稲田大学に入った。たぶん、いわゆる勉強のできる人に憧れていたのもあるだろうし、そうした人たちと関わってみたいと思っていたのだろう。早稲田に入ったことは、もちろん後悔していない。親が浪人を認めておらず、現役で入れ、と言っていたので、東大はどう考えても無理だった。それで、自分にもぎりぎり入れそうなのが、早稲田大学だった。あと、早稲田のオープンキャンパスを見に行ったとき、このキャンパスで大学生活を送りたい、と思った。大隈講堂にかじりつきたい、と思った。

 

それで、なんとか現役で早稲田に入った。入ってみたら、みんな頭のいい人ばかりで、馬鹿なのは自分くらいだった。少なくとも、自分の見てきた人のなかで、自分よりも勉強のできなさそうな人は、ひとりもいなかった。でも、勉強ができるかできないかはそんなに重要ではないという意見もあるかもしれない。でも、ぼくは勉強はできるに越したことはないと思っている。勉強のできない人ほど、努力ができない人だったり、努力ができないくせに威張っていたり、他人を見下していたり、根拠のない自信を持っていたりすることが多いように見えた。大学に入ってまず感じたことは、みんな簡潔な言葉で話すし、謙虚である、ということだった。また、向上心の強い人ばかりだった。ぼくの周りには、上昇志向の強い人たちばかりいた。

 

ぼくも、彼らと同じく、上昇志向の強い人だった。ぼくの知的な領域におけるコンプレックスは、統合失調症になり、クルクルパーになってから生じてきたのだと思う。ぼくは大学時代は、芸術的感性ということだけが、自分にとっての関心ごとだったので、頭の良し悪しについては、まったく興味がなかった。知識自慢も、憎んでいた。ぼくが切実に求めていたのは、人とつながることだった。コミュニケーションだった。

 

「コンプレックス」という言葉を使っているけど、ぼくは河合隼雄の『コンプレックス』という本をまだ通読したことがない。近いうちに読みたい。