悲智一如

はっきり言って、伝えたいことや言いたいことはなにもない。伝えることへの衝迫と、イントラ・フェストゥム性とは関係しあっているのだろうか。寡症状性統合失調症は、最もイントラ・フェストゥム性の弱い事態だと木村敏は言っていた。ジャズは「現在」、「瞬間」の芸術だから、永遠の現在性(イントラ・フェストゥム性)の弱い寡症状性統合失調症の人といちばん相性が悪い。寡症状性統合失調症の人は、いちばんジャズに向いていない。逆に、ジャズに最も向いているのは、永遠の現在的、イントラ・フェストゥム的な人だろう。ぼくも昔は、かぎりなく永遠の現在的で、イントラ的だった。だから演奏もできたわけだ。

 

また、詩を書くことも、少なくとも一部の詩においては、イントラ性がとても重要だと思う。ぼくはもう詩は書けないけど、詩というか文章だな、それはなぜかというと、イントラ性がなくなったからでもあるし、感情がなくなったからでもある。

 

感情がなくなったとはどういうことかというと、世界のリアリティというべきものとの接触が失われてしまったことと連動している。これについてはやはりミンコフスキーの「現実との生ける接触の喪失」という言葉が適当だと思う。感情体験というものは、現実との生ける接触体験によって生じるものだからだ。世界との感情的通路の問題。

 

谷川俊太郎は「かなしいときは歌うだけ、歌うとかなしみはふくらむ風船のように、それがわたしの喜び」というようなことを書いていた。悲智一如というか、かなしみと喜びが渾然一体となっていたのだろう。

 

ここで谷川が言っているようなかなしみと、西田幾多郎が「哲学の動機は驚きでなくして深い人生の悲哀でなければならない」と言ったときのかなしみと、同一のものを指しているのかどうか、興味がある。喜びと一体となったかなしみであるのかどうか。

 

かなしいから歌うのであるけれど、歌えば歌うほど、かなしみはなくなるどころか、どんどんふくらんでいく。それで、それは自分にとって喜びでもある。西田の言っているかなしみとは、そうした種類のかなしみであったのかいなか。