西田幾多郎『善の研究』をブログのタイトルのところに載せた意味

ブログのタイトルのところに、ぼくの普段使っているパソコンの横に置いてある、西田幾多郎の『善の研究』の写真を使った。ぼくはこの本がとても気に入っている。岩波文庫版、講談社学術文庫版の二つを読んだ。とはいえ、西田の本はこの『善の研究』くらいしか読んでおらず、あとは小坂国継『西田幾多郎の思想』(講談社学術文庫)を読んだくらい。西田の哲学論集全三巻、あと全集を何冊か持ってはいるけど、あまり読んでいない。近いうちに読みたいとは思っているけど、なかなか出番が回ってこないし、そもそも難しすぎる。

 

それでも、西田幾多郎は、ぼくにとっての憧れである。憧れというのかな、西田みたいになりたい、というふうには思わない。なれるわけがないから。自分にとってのヒーローと言ったらいいのかな。西田幾多郎の写真を見ていると、独特の感じがする。その感じは、言葉に置き換えるならば、やはり「憧れ」ということになるのだろうと思う。だから、これから少しずつでも、西田を読んでいきたいと思う。西田だけというわけにはいかず、他にもエックハルトやら上田閑照やらニーチェやら村上春樹やら、読みたい本がいくつかあるので、なかなか出番は回ってこないけれども。

 

善の研究』は何回か読んだから、次はやはり、岩波文庫の哲学論集全三巻だろうか。「場所的論理と宗教的世界観」という西田の最後の論文は、少しだけ読んだ。あとで、本棚から引っ張り出してこよう。

 

ぼくは、軽薄だろうか? 統合失調症になる前に、西田に出会っていたとしたら、もう狂喜乱舞していたと思う。狂喜乱舞というより、志を同じくする人(こういう言い方は不適切かもしれないけど)に出会えた、という喜びと、安心を感じていたんじゃないかな。