あなたがたは、不可解や背理のなかに生み落とされて甘んずるはずがない(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)

西田幾多郎とか鈴木大拙とか木村敏とかエックハルトとかに惹かれるんだけど、こういう哲学、宗教、精神病理学などの本を読むことでいくらか罪悪感のようなものを感じたり、こういう本は読まないほうがいいんじゃないかと思ったりもする。読みたいんだけど、こういう本を読んでいると、自分は危険な方向へ行ってしまうんじゃないかというおそれがあるのかな。村上春樹が『雑文集』で、「小説家にとって「自己とは何か」という問題はあまりにも自明なことなので、このようなことについて考えることは有害ですらある」というようなことを書いていたのが、気にかかっている。ぼくにとっては「自己とは何か」という問題は全然自明ではないのだけどもね。だから必ずしも村上春樹に合わせる必要はないんだろうけども。

 

あと、大学のとき、ミクシーに「字を書くにあたって、どのように書くか作為することを無理にやめる必要はない。作為したいという気持ちを排除することなく、思う存分に作為するべきだ。そうした時に字を作為なく書くことができる」というようなことを書いた。そうしたら中学のときの知り合いから、「哲学思想の世界にのめりこみ、脳内がカオス化した大学生みたいな文章だねかっこ笑い」というコメントが来た。上から目線の高踏的なコメントだ。「哲学思想」に対する侮蔑的な態度も見て取れる。また、このぼくの書いた文章のどこがカオス的なのか、未だにわからない。要するに即非の論理じゃないか。仏教の基本だ。

 

当時のぼくは、このような無知で馬鹿げたコメントを見て、動揺してしまった。このコメントを書いてきたやつは、いわゆる「哲学思想」に対してコンプレックスを持っていたんだろう。「哲学思想」を馬鹿にする態度を取りながら、実は憧れのようなものも持っていたんじゃないか。でも、そいつには「哲学思想」が理解できないものだから、「哲学思想」の本を読んでいる人を攻撃せずにはいられない。

 

まあともかく、ぼくが哲学、宗教系の本を読むのを無意識のうちに自制する習慣がついているのは、上に書いたやりとりの影響もあるんじゃないかと思う。平野啓一郎的に言えば、ぼくが哲学系の本を読んでいるとき、ぼくは「脳内がカオス化した大学生」としての分人を生きていたんじゃないか。哲学系の本を読むたびに、そいつから言われたその言葉が頭によぎっていたんじゃないだろうか。

 

最近は、平野啓一郎『ディアローグ』のあとがきで平野啓一郎が、芥川賞をとった「日蝕」を書いていたとき、神秘主義にのめりこんでいたのだと書いていた。それでぼくは小説家も神秘主義にのめりこむものなのかと思って、心強く感じられた。この道を進んでいいんだ、と思えた。それでそのとき、鈴木大拙の下に挙げる文章を思い出した。

 

その後エマスンの論文集を何かの機会で読んだ。これがまた自分をして新たな思想に赴かしめた。その中に次のような言葉があったように今うろ覚えに覚えている。

「自分の心に動くことを表現するに躊躇するな。大人物といわれている人でも、自分の心の中に在るもの以上に、何ものをも持っているのではない。今ここに〔窓の隙から〕一条の光明が射し込んで来て、自分の頭の上に落ちたとせよ。如何に微かでもこの光の証人は自分だけのほかに誰もないのだ。これを天下に宣言するに誰を憚ることもいらぬ。」

と。このようなことがあったように覚えている。自分はこれを読んだ時、深く感動した。これがセルフ・レライアンス〔自己信頼・自信〕だ、これが本当の自由だ、これが本当の独立不羈なるものだ。小さいといって自ら卑しめるに及ばぬ。小さいは小さいながらに、大は大ながらに、その持っているすべてを表現すればよいのだ、これがシンセリティ〔誠実〕だと、こういう風に自分は感激したのだ。(鈴木大拙『新編 東洋的な見方』、p278)

 

まあそんなわけで、宗教・哲学の本も読んでいきたいし、並行して小説も読んでいきたいですよ。そして、読書するためには、作業所などどこかに継続して通っていないといけないことがわかった。普通だったら、家で無理せずにゆっくり休めば、体調は回復するはずなんだけど、ぼくの場合、悪化する。無意識の世界は、ややこしやー!