三四郎の中のヘーゲル

ヘーゲルの講義を聞かんとして、四方より伯林に集まれる学生は、この講義を衣食の資に利用せんとの野心を以て集まれるにあらず。ただ哲人ヘーゲルなるものありて、講壇の上に、無上普遍の真を伝うると聞いて、向上求道の念に切なるがため、壇下に、わが不穏底の疑義を解釈せんと欲したる清浄心の発現に外ならず。この故に彼らはヘーゲルを聞て、彼らの未来を決定し得たり。自己の運命を改造し得たり。」(夏目漱石『三四郎』、岩波文庫、48-49ページ)

 

ものすごい文章だ。今回でこの本は通読は六回目くらいだけど、これまで、この文章に目は留まらなかった。やはり本は何度も繰り返して読むと発見があるということだろうな。この数行の短い文章の中に、ものすごい内容が込められていると思う。ぼくなんか、共感しちゃうな。

 

「向上求道の念に切なる」というのはとても共感する。ぼくはまさに向上したいと思っているし、その内容は求道といってもいいと思う。宗教的な、人生的な方面へ向かっているし。それも、切実なんだ。そして、なぜそういう方向へ向かおうとしているのかというと、「不穏底の疑義を解釈」したいと思っているからだ。この解釈という言葉の選び方もいい。解決ではなくて、どこまでも解釈に過ぎない。ぼくはなんでこんなことになってしまったのかとか、そういう疑問があるわけで、勉強したところでそういうことを解決できるとは思わない。でも、解釈できるだけでいいと思っている。そして、このような不穏底の疑義、言い換えれば人生のもやもやのようなものを解釈しようとすることで、人生が決定しうるのだと。自己の運命を改造しうるのだと。

 

なんか、元気づけられちゃったな。

 

まあともあれ、ぼくの場合、本は二回読んだくらいではまだ十分に内容が見えてこないと思った。六回くらい読んで初めて見えてくるものがあるんだな、と思った。