「生き物」同士の出会い、井戸掘り、パウロ

ぼくには哲学といえるようなものはない。人生観というくらいのものならあるかもしれない。というわけで、人生観の話。

 

人生観にしろ、哲学にしろ、自分の心を問題にすることなんじゃないかと思う。自己を探求することがこれ哲学であるならば、ぼくの場合、自己自身が消えてなくなってしまったのだから、哲学はできないということになる。統合失調症になるまでは、自分の心について、常に考えていた。自分の心が失われかけていることについて。自分はどのような部分で世界とつながっているのか。世界とのつながりがほとんど失われていたけど、でもかろうじて世界とのつながりは絶たれてはいなかった。だから、その細いかすかなつながりを常に凝視し、考えていた。自分の関心の対象は、ただひとつ、失われかけている自己と世界とのつながりだった。そういう意味では、そのころの自分の生き方は、哲学的といっても差支えはないかもしれない。

 

自分の人生、生き方について考えることと、自分と世界とのかすかなつながりについて考えることとが、まったく同じことだった。ぼくは常に音楽について考えていた。ぼくが音楽と呼んでいるところのものは、世界といかにつながるかという問題そのものだったので、ぼくにとって自分の人生について考えることと、自分と世界とのつながりについて考えることと、音楽について考えることとは、すべて同じことだった。その当時はぼくは哲学書なんて一冊も読んだことがなかったし、哲学には関心はなかった。ただ、自分がその日その日を生き残ること、十全で後悔のない生き方をするためにはどうすればいいのか、あるいは音楽の可能性についてだけ考えていた。しかし、そうした生き方は、いってみれば、きわめて哲学的な生き方といえるかもしれない。

 

もちろん、こんなのはたんなる名づけの問題なので、哲学的なんかではないよ、といわれても仕方がない。別に哲学だろうがなかろうが、どちらでもよい。ただ、ぼくは自分の人生について、自分が世界といかにつながれるのか、人間といかにつながれるのかについて真剣に考えていたのは事実だ。身体的に考えていた、といえる。

 

いまの自分はどうか。端的にいえば、身体的に考えることができなくなっていて(身体というのは心を指す。もっといえば、無意識を指すといってもいいかもしれない。心の根柢。)、不自由な頭でいくらか考えているだけにすぎない。哲学というのは、あるいは生きるということは、そういうことではないはずだ。身体的に考えることなしに、生きることができるだろうか、できはしない。我々が生きているのではない、我々の身体が(もう一人の自分、あるいは生き物が)生きているのだ。断じて、生きているのは我々ではない、生きているのはもう一つの世界における自分だ。

 

また、そのもう一つの世界では、出会うべき人たちが出会う。想像の世界、妄想の世界といってもいいかもしれない。しかし、現にそうした世界は存在する。我々が生きているのではない、我ではないこの生き物が生きているのだ。そうして、自分以外の誰かも、同じように、「自分が生きているのではない、生き物が生きているのだ」と感じているに違いない。そうして、生き物同士が出会うことになる。それは想像、妄想の世界で出会うといってもよい。

 

村上春樹が井戸堀りといっていたことも、このことだろう。健康人の多くは、自分の生き物を多かれ少なかれ、抑えつけて生きているし、我は我である、と信じて生きている。しかし、世の中のうちには、我は我ではなく、生き物である、と感じている人もいる。そうした人たちは、井戸をいくらか深く掘り進めた人だろう。パウロが「最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」(ガラテヤ2・20文語訳)といったのも、そのことだろう。そうして、このような人たちにとっては、自分の生きているこの世界こそかりそめの世界であり、もう一つの世界、生き物と生き物とが出会う世界こそが、真実の世界なのではないだろうか。