生活保護について、デペイズマンについて

今日はサンマルクカフェで一時間半くらい本を読んだ。今日図書館で、『生活保護で生きちゃおう! 崖っぷちのあなた!死んだらダメです。』という本を借りてきたので、それを最初から最後まで読んだ。

 

なぜ生活保護の本を借りたかというと、ぼくの彼女が最近、生活保護について考えているといっていたからだ。親が定年するまでに、つまりあと三年くらいのあいだに、一人暮らしを始めたいのだといっていた。それで、一人暮らしをするためには、障害年金と作業所の工賃だけでは当然生活できないので、生活保護に頼るしかないだろう、という話だった。彼女の母親は、「駅弁祭り君と一緒に暮らせばー」というふうにいっていたのだと。なるほど、彼女と一緒に暮らすという選択肢もあるのかなと思った。

 

ぼくは自分一人の生活費すら稼ぐことができていないのに、彼女と一緒に暮らすことなんて不可能だと諦めていた。将来的に、両親がいなくなったあとに独り身では寂しいだろうと思う。一緒に暮らすのであれ、いまと同じように別々に暮らすのであれ、お互いにいい関係を続けていければと思う。

 

生活保護については、最後の手段という印象があった。もう誰も頼れる人がいない、このままだと生活が立ち行かないという切羽詰まった状況になってはじめて受けられるかどうか、というものなのだと思っていた。扶養者がいるかぎり、受けることはできないのだと。親がいるあいだは少なくとも無理だろうと思っていた。うちは家も車もあるし、例えば両親がいなくなって、家も車も手放して、兄弟にも頼れないという最終的な状況に陥ってはじめて生活保護が受給できるかいなかなのだと思っていた。だから少なくとも当面は、ぼくには縁のない話だろう、と思っていた。

 

で、今回この本を読んでみた。なぜこの本を選んだのかというと、彼女が最近この本を読んだといっていたから。サンマルクにいる一時間半のあいだに通読できた。この本の趣旨は、「生活保護を受けている人は、どうしようもない駄目な人ではない」、「生活保護を受ける資格があるのに、実際には受給していない人がたくさんいる(日本では受給資格のある人のうちの二割程度しか実際には受給していない。フランスではこの割合は九割程度。先進国のうちでは日本は圧倒的に受給者の割合が少ないのだと)」、というようなことだった。生活保護を申請することをためらわないでほしい、というメッセージが全体に感じられた。

 

ただ、ぼくが気になるのは、扶養者がいる場合、生活保護は受給できないんじゃないかということ。あと、生活保護でどれくらいの生活ができるのかということ。具体的には、一日の食費にいくらくらい使えるのかということ。一例として、一日の食費に600円くらい使えると書いてあった。一食200円なら、やっていけないことはないと思った。マルちゃんの焼きそばだったら一食30円だし、スパゲティソースだったら二食入りで160円くらいで買える。

 

その一方で、ネットで「生活保護」で検索すると、やはり生活保護を受給することは難しいということ、あと生活保護を受給している人たちに対する世間の目は厳しいのだということがわかった。

 

でも、実際に両親がいなくなったあと、ぼくはどのように生活していけばいいのか。実際に働けるのだろうか。

 

話は違うけど、「再発が怖い」というふうにデイケアの職員がいっていた。つまり、働き始めても、再発してしまったら大変だ、と。ぼくはこの言葉に大変な違和感があって、再発ということなら、ぼくはずーっと病気の症状が緩和されたことはない、つまり八年前に発症した当時からいまに至るまでずっとぼくは再発のさなかにあると感じている。再発というか、一度も緩和されたことがないから、再発という言葉はまったく当てはまらない。ずっと症状のありかた、程度はいまに至るまで変わらない。いや、程度はかつてよりも少しだけ軽くなったかもしれない、がありかたは変わらない。その症状のありかたというのは、結局簡単にいえば、昨日の記事でも触れた、レインのいっている「二つの仕方で裂けていて、他者とともにある存在として生きることができないし、世界のなかでくつろぐこともできない」という事態。このデペイズマン的異化(見当違いということ)のような体験は、発症当時からいまに至るまで、一貫して続いている。毎日続いている。

 

このレインのいっている「くつろぐことができない」ということ、つまりデペイズマン的異化ということについて、理解してくれる人はとても少ない。ぼくが苦しんでるのは、幻聴でもない、妄想でもない。無気力に苦しんでいるし、感情の乏しさ、思考力の減退について苦しんでいるともいえるし、胸が空っぽになって息苦しくなるといった体感幻覚症について苦しんでいるともいえるし、ほとんど常に感じている焦燥感、じっとしていられない、落ち着きがないということに苦しんでいるともいえるけれども、最も根本的、本質的な問題は、レインのいっているような「くつろぐことができない」ということだ。デペイズマン的異化だ。木村敏の「あいだ」だ、共通感覚の問題だ、文脈のないことだ、現実との生命的接触の喪失だ、自然な経験の一貫性の解体だ。

 

ぼくが苦しんでいる問題は、いま挙げたようなことなんだけど、おそらく福祉関係の人は、この方面の症状について知らないのだと思う。なぜ知らないのかというと、やはりこの問題に苦しんでいる患者の数が少ないからなんじゃないか。例外的な患者を理解するための勉強をする余裕はない、ということだと思う。

 

このような問題について、理解するためにはやはり、木村敏精神病理学だけでなく、西田幾多郎の哲学、鈴木大拙の禅思想、エックハルトなどのキリスト教神秘主義思想などについて理解することも必要なのだと思う。福祉関係の人で、木村敏だけでなく、西田や大拙エックハルトまで勉強する人はたぶん非常に少ないんじゃないかと思う。おそらく。福祉関係の人で、河合隼雄の名前すら知らない人もいる。

 

ともあれ、生活保護については、まだよくわからない。ぼくがかりにいま家を出て一人暮らしを始めるとして、それで生活保護が受けられるとは思えない。市役所の人に、実家暮らししなさい、といわれるだろう。かといって、将来おそらく生活保護を受けるしか生き延びる手立てはなさそうなのに、いま作業所に通って、就労を目指しているのは意味があることなのかどうか、とても疑問だ。

 

ぼくは外目から見れば、多少は普通に見えるかもしれない。だから軽症ということにされてしまうのかもしれない。が、ぼくは自分では重症の「くつろげないやまい」、「デペイズマン的異化病」だと思っている。問題は、世間に「デペイズマン的異化」という「病名」が流通していないことだ。世間の人が、レインのいっているような事態、つまり「世界のなかにあって、くつろぐことができない」事態、デペイズマン的異化について、どれだけ理解しているというのか?幻聴が、妄想がないから、ぼくは軽症だというのか?デペイズマン的異化についてはどうなんだ?ぼくが軽症とみられるのは、世間にこのデペイズマン的異化といった事態が認知されていないからだろう。

 

自己病名をかかげる「べてるの家」みたいだけど、ぼくはそれなりに重症の「デペイズマン病」だと思っている。デペイズマンの問題について苦しんでいる人はおそらくとても少ないのだと思う。それなりの数の人がこの問題について苦しんでいるのであれば、この病気を持ちながらも働くことができている前例などが、文献とかに出ているはずだ。しかし実際にこのデペイズマンに苦しんでいる例は、木村敏の著作、ブランケンブルク『自明性の喪失』、レイン『ひき裂かれた自己』など、分裂病精神病理学のとてもかぎられた数の本にしか出ていない。