日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

ナラティブ形成

「自分とは何か?」という問いかけは、小説家にとっては――というか少なくとも僕にとっては――ほとんど意味を持たない。それは小説家にとってあまりにも自明な問いかけだからだ。我々はその「自分とは何か?」という問いかけを、別の総合的なかたちに(つまり物語のかたちに)置き換えていくことを日常の仕事にしている。作業はきわめて自然に、本能的になされるので、問いそのものについてあえて考える必要もないし、考えてもほとんど何の役にも立たない→むしろ邪魔になる。もし「自分とは何か?」と長期間にわたって真剣に考え込む作家がいたとしたら、彼/彼女は本来的な作家ではない。あるいは彼/彼女は何冊かの優れた小説を書くかもしれない。しかし本来的な意味での小説家ではない。僕はそう考える。(村上春樹『雑文集』新潮文庫、23-24ページ)

 

そう、小説家とは世界中の牡蠣フライについて、どこまでも詳細に書きつづける人間のことである。自分とは何ぞや? そう思うまもなく(そんなことを考えている暇もなく)、僕らは牡蠣フライやメンチカツや海老コロッケについて文章を書き続ける。そしてそれらの事象・事物と自分自身とのあいだに存在する距離や方向を、データとして積み重ねていく。多くを観察し、わずかしか判断を下さない。(同、26ページ)

 

「本当の自分とは何か?」という問いかけが、その論理的な歪みのゆえに、オウム真理教(あるいはほかのカルト宗教)に多くの若者を引き寄せる要因のひとつになったということは、本書でも大庭健さんによってしばしば指摘されているところだ。(同、26ページ)

 

これらの村上春樹の文章が、ずっと前から気にかかっている。初めてこれを読んだとき、がつんと来た。衝撃的だった。ぼく自身がまさに、村上春樹がここでいっているような、オウム真理教にのめりこんでいった人たちと同じような陥穽にはまりこんでいるように思ったからだ。

 

ブランケンブルクという精神病理学者の本に『自明性の喪失』というのがある。この本に出てくるアンネ・ラウという患者は、自然な自明性を失っているとされている。この本では、彼女は単純型分裂病とされている。ぼくはこのアンネという人にそれなりに共感できる。まったく自分自身と同じだと思うわけではないけど、かなり近い感じかたをしていると思う。

 

分裂病は、生涯治ることのない病とされている。そして、ぼくは自分を内省型単純型分裂病というのに近いと思っている。主治医は、「統合失調症神経症の中間」といっている。診断書の病名は、「統合失調症」。

 

ぼくの病気が生涯治ることのない病であるとするならば、自明性を失っている状況からは生涯ぬけ出すことができないということになる。村上春樹が上の文章でいっているような提言が、ぼくにとって具体的に意味を持つのだろうか。意味を持つのか、持たないのか、まだ答えは見つかっていない。つまり、考え方を変えていくだけで、ぼくの病気が改善するのかどうか。ぼく自身が体験している「自明性の喪失」のようなものは、言語的に理解する必要のあるものなのだろうか。もし言語的に理解する必要のないものであるとするならば、木村敏ブランケンブルクやビンスワンガーなどの分裂病精神病理学も、まったく必要のないものである、ということになるのではないか。精神科医にとっては必要であっても、患者当人にとって、そのような種類の自己理解は必要がないということだろうか。

 

ぼくは自己理解を欲している。自己といっても、自分という確かな、手に取って眺めることができるようなものがあると考えているのではなくて、自分と世界とのあいだの距離だとか、自分が世界と、あるいは人間とどのように対峙しているのか、それが知りたい。それがたんなる浮ついた知的好奇心によるものなのか、もっと切実な自己治癒を望む気持ちによるものなのか、区別ができない。

 

ぼくは落ち着かなかったり、瞬間に自分自身が閉じ込められていると感じられて苦しかったり、あるいは自分の感情がとても弱くなっていて、考えるために必要な生きた脈絡のようなものを感じることができなくなっていて、日常生活を普通に大過なく送ることができない。

 

うろ覚えだけど、「これが自分の傷口だといって手に取って示すことができるような傷は、たいした傷ではない」、これも村上春樹がいっていたことだ。ぼくは自分が異常であると感じているし、日々苦しい時間が多い。しかし、いまこの文章を書いていて、自分は果たして本当に精神を病んでいるのだろうか、という疑問がわいてきた。結局ぼくの抱えている問題は、自意識の病であって、架空の創作なのではないか? 神経症が架空の創作であると森田正馬がいっているように。

 

現実感がない、ものがあるという感じがしない、人間が生きている感じがしない、物事をスクリーン越しに眺めているようにしか感じられない、時間が流れていかない、体験がすべてばらばらの点となっていて、脈絡が感じられないといった、一般に離人症として説明される状況も、結局は自意識の病であって、もともと異常でも何でもない人が、何かをきっかけとして落とし穴にはまりこんでしまっただけのことではないのか?

 

時間が流れていかないということが、ぼくにとって最も苦しい問題だ。しかし、いつもいつも時間が流れないというわけでもない。喫茶店にいって二時間くらい本を読み続けることもできる。

 

ぼくが哲学、宗教系の本に引きつけられるのは、自己理解を求めているからだろうか、それとも浮ついた知的好奇心によるものだろうか。わからない。「わからない」ということが、ぼくのいまの状況を最も簡潔に言い表しているのではないか、そういう気もしてきた。自己理解をしたいのかどうかももうわからない。たしか、自分は信頼できる感情なり、体験をかつては持っていた。それがあるときを境に、失われた。そのような変移を納得して理解することのできるナラティブとして、木村敏やミンコフスキーの分裂病精神病理学だとか、鈴木大拙の禅思想、西田幾多郎の哲学などが役に立っているということなのではないか。

 

「生きるとは、物語をつむぐこと」というようなことを河合隼雄がいっていた。結局、ぼくにとって自分のナラティブを形成するためには、木村敏鈴木大拙西田幾多郎といった人たちの思想が必要だったのだと思う。いまも十分にナラティブを形成できているとは思わないので、これからも必要なのだと思う。

 

「私には自分自身がいちばん怖い。自分が何をするかわからないということが。自分が今何をしているのかよくわからないことが」

「青豆さんは今何をしているの?」

青豆は自分が手にしているワイングラスをしばらく眺めた。「それがわかればいいんだけど」と青豆は顔を上げて言った。「でも私にはわからない。今いったい自分がどの世界にいるのか、どの年にいるのか、それすら自信がもてない」

「今は一九八四年で、場所は日本の東京だよ」

「あなたみたいに、確信をもってそう断言できればいいんだけど」

「変なの」とあゆみは言って笑った。「そんなの自明の事実であって、今さら確信も断言もないじゃん」

「今はまだうまく説明できないけど、私にはそれが自明の事実とも言えないの」(村上春樹1Q84 BOOK1 後編』、新潮文庫、326ページ)