日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

おもに読書について、雑感

ここ半年、いや一年くらいか、精神病理学、心理学、哲学、宗教といったジャンルの本をほとんど読んでいない。つまり、小説しか読んでいない。どのような小説かというと、ドストエフスキー大江健三郎村上春樹平野啓一郎といったところ。去年は『カラマーゾフの兄弟』を二回通読した。いまも『カラマーゾフの兄弟』を読んでいる。本を読んでいるといっても、能力的に多くは読めない。一日に100ページも読めば上出来なほうだ。

 

さっき久し振りに木村敏の『あいだ』という本を引っ張り出して、読みだした。やはりこれはとんでもなく面白いと思うし、この本を読むのはぼくにとって何の苦もないし、ある意味とても簡単なことだと思った。完全に理解できているとは思わないし、木村敏の思想のごく一部分しか理解していないのかもしれない。でも、文章の平易さは問題ではないのだと思った。木村敏の文章は一般的に難しいとされているけど、内容の難しさをはるかに上回る面白さがあるから、ぼくは木村敏の本を読むことに苦を感じない。

 

それでも、木村敏から離れてしまうのはなぜだろうか。これを読んでいて、意味があるのだろうかという疑問が頭に浮かぶことがある。これは本だけに限らず、ギターの練習についてもいえることだ。これをしていて意味があるのだろうか、と思うことがある。本の選択を間違えているのではないか?ギターは趣味から除外するべきではないのか?

 

西田幾多郎を読んでいて、これを読んでいて意味があるのだろうかと思うことがある。鈴木大拙を読んでいて、そう思うことがある。とても面白いと思う時もある。木村敏にしろ、西田幾多郎鈴木大拙にしろ、とても面白いと思う一方で、「これを読んでいて意味があるのだろうか」という疑問が浮かぶ時点で、ぼくはこれらを大して面白いと感じていないということになるのではないか?村上春樹にしてもそうだ。面白いと思う。最後まで読み通すことは苦ではない。でも、疑問が浮かぶことがある、ぼくが読みたい本はこれなのだろうか?もっと読むべき本が他にあるのではないか?もっと他にやるべきことがあるのではないか?

 

村上春樹、ということで思い出した。村上春樹国境の南、太陽の西』という小説で、主人公は自問自答している、いまの自分の人生は上出来かもしれない、しかしこれが本当に自分の望んでいる人生なのか、と。

 

ここ一年くらい、小説だけを読んでいる。去年の四月から手帳に日記とか読書記録を書いているから、何の本を読んだのかも一目瞭然になっている。去年の四月から、いまに至るまで、小説以外の本は確か三冊くらいしか通読していない。聖書はたまに開くけど。ちょうど、去年の四月に鈴木大拙『禅』ちくま文庫、を通読している。三回目くらいの通読だったけど、とても鮮烈な印象があった。線を引っ張りまくり、ページの角を折りまくった。

 

ぼくは数年間、西田幾多郎鈴木大拙に執着していた。両方の岩波の全集を全巻揃えていて、これらをいずれは読破したいと思いながらも、なかなか読み進められないことに落ち着かなさを感じていた。いまから一年くらい前に、西田幾多郎にしても鈴木大拙にしても、文庫で出ているやつだけ読めばいいのではないかと思って、全集全巻はクローゼットの中にしまった。

 

木村敏西田幾多郎鈴木大拙は、ぼくにとって思想系著者の三強といっていいのだろう。木村敏については、主要な著作は十五冊くらい読んだので、自分は木村敏をまったく読んでいないというふうに不満を感じることはない。鈴木大拙にしても、主要な著作を八冊くらいは読んだので、それなりに理解していると思っている。けれども、西田幾多郎については、『善の研究』『思索と体験』の二冊しか読んでいない。あと全集から講演の文章をいくらか読んだだけ。エックハルトとかクザーヌスについての内容だった。西田幾多郎については、やはり前々から興味があるのに、ちゃんと読んでいないということに落ち着かなさを感じているのかもしれない。

 

ぼくはいま小説しか読んでいないけど、確かに小説も面白い。でも、面白いという感じは相対的なもので、もっと面白いものがあるならば、そっちを取るべきだろう。ぼくは本を選ぶとき、小説と、思想系、というふうに二つにわけて考えている。いまは小説中心で行こう、とかそういう二分法というかスプリッティングみたいなのが起こっている。

 

木村敏臨床哲学対話1と2、現代思想の総特集木村敏を発売後すぐに買って読んだのはいつのことだったか?もう二年くらい経っているのではないか。一時期、禁止ということを重視していた。つまり何かしら禁止をしなければ、何か目標を達成することはできないのではないか。例えば、本を一冊読み通す場合、一冊に集中することを阻む行動を、みずから禁止するわけだ。並行読みは禁止するべきかいなか、これも前から悩まされている問題の一つだ。以前は、思想系の本を中心に読もう、とか、自分に何らかの方向づけを与えていた。いまは無方向的に放埓に、適当に本を読んだり読まなかったり、ギターを弾いたり弾かなかったり、という生活を送っている。このような変化を前進とみなすべきなのかどうかわからない。

 

いまはドストエフスキー大江健三郎とサドと木村敏を並行して読んでいる。どれも面白い。でも、何かを選ぶということは何かを切り捨てるということだ。ぼくはずっと選ぶことを避けているのではないか。選ぶことを避ければ、捨てることを避けることにもなるのだろうか。しかし、ただぼんやりしているだけのようにも思う。

 

試しに、いまは思想系の本を中心に読もう、というふうにやってみるかどうか。目標を限定することで、自分のやりたいことが見えてくることもある。

 

さっき久し振りに木村敏『あいだ』を少し読んだ。この本は一度しか通読したことがないから、内容はほとんど覚えていないし、頭に残っていない。やはり最初のほうの音楽の合奏についての話は、圧巻だった。ビル・フリゼールもインタビューで、この木村敏の音楽についての文章とまったく同じようなことを言っていた。「あいだ」の話。

 

自分の苦しみに敏感になることも必要だし、自分の楽しみに敏感になることも必要だろう。