Abide With Me、アウグスティヌスに感動
夕飯のあと、自分の部屋で30分ほど音楽を聴いた。Thelonious Monk "Monk's Music"を聴いた。このアルバムは"Abide With Me"という讃美歌で始まる。机の上に乱雑に積まれた本を片づけ、整理した。最近はドストエフスキー、木村敏、大江健三郎を中心に読もうと考えていたけど、机に向かって机の本棚を眺めていると、読みたい本がたくさんあることに気づいた。アウグスティヌス『告白』(山田晶訳、中央公論社、世界の名著シリーズ)を開いて少し読んだら、これだと思った。ものすごい充実感だった。
いま述べたことの意味を見いだしながら神なるあなたを見いだしえないよりはむしろ、その意味を見いだしえないことによって、かえってあなたを見いだすことのほうを愛してほしい。(アウグスティヌス『告白』、69ページ)
この部分の註釈。
イスラエルの子らは、荒野において天上からくだったものを見て「マナ」といった。「これはいったい何だ」という意味である。しかし彼らは、そのわけのわからないものを食べて、荒野の旅をつづけることができた(「出エジプト記」一六・一五)。同じように、神の永遠の意味はわれわれによくわからなくとも、わからないままにのみこんでほしい。われわれにわからない神の永遠によって、われわれの生は養われるのだから。(同、69ページ)
完全に知られたと思ったとき、それはもはや神ではない。神は知られざることによってかえって知られるのである(『秩序論』二巻一六章一四節)。(同、69ページ)
ぼくは自分が共通感覚を失っていると考えていて、自分は神なるものを見いだしえないと考えている。しかし、よく考えてみたら、共通感覚に疵が入っているからこそ、共通感覚なるものがあるのだということを知ることができるのだし、それはつまり、「かえってあなたを見いだす」ということではないのか。
答えは、いつも問いについてくる。すなわち、問うことが、答えることなのである。しかし同時にまた、問いがなされないかぎり、いかなる答えも生まれないということを忘れてはならない。(鈴木大拙『禅』ちくま文庫、29ページ)
しかしながら、もし求めようとしないならば、すなわち、それを突きとめようとして特に心を傾けることがないならば、われわれはけっしてそれを把握することはできない。(同、30ページ)
しかし、ぼくはマナなるもの、つまり「これはいったい何だ」というものを食べることで荒野での旅をつづけることが、できているのかどうか。できていないのではないか。わからないものをわからないままにのみこんでいるといえるのだろうか。いえないのではないか。村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という小説の中で、蛇は体内にとりこんだ食べ物を、長い時間をかけて消化する、という話が出てきた。ぼくは消化不良になっている気がする。鷲田清一が『哲学の使い方』という本の中で、思考の肺活量ということをいっている。わからないものをわからないままに、観察する姿勢が大事なのだと。判断を下してはならない。それと同じことを、村上春樹自身も言っていた。
われわれは、さまざまなものに支えられて生きている。正気を保っていられるものも、支えがあるからだろう。健康を保っていられるのも、安全な環境で生活できるのも、支えがあって可能なことだろう。「われわれにわからない神の永遠によって、われわれの生は養われる」。木村敏的に言えば、われわれは共通感覚によって養われている、ということになるだろうか。神とか絶対無を共通感覚と言い換えていいのかわからないけれど。
Abide with me; fast falls the eventide
The darkness deepens; Lord with me abide
When other helpers fail and comforts flee
Help of the helpless, O abide with me
(われと留まれ。夜が落ちる。
闇が深まる。主よ、留まれ、われと。
助けがとどかず、慰めが逃げるなら、
無力なものの救い主よ、おお、われととどまれ)