努力しないで過ごす勇気を持つこと

夏目漱石とか村上春樹平野啓一郎あたりは、努力なしで読める。しかし、努力なしで読める本を読んでいると、落ち着かないときがある。努力することに対してこだわりなり執著があるみたい。努力しないで過ごす勇気も必要なのではないか。努力しないでいると、恐怖を感じるのかも。努力に執着するのは、恐怖の所産なのかも。成長しなければならない、前進しなければならない、という強迫観念。成長、前進(と考えるものごと)にかかわることをしないでもいいんだと、思えればいいのだと思う。「努力」しているときの充実感のようなものに魅力を感じるのも事実なのだろうけど。しばらく、エンターテインメントの本だけ読んでいようかと思った。(3.1)

 

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この文章は手帳に書き込んだものだから、誰かに読まれることを意識して書いたものではない。自分のため、考えをまとめるためだけに書いた。でも結果的に、こうして公開している。たまたま個人情報も書いていないし、公開しても問題はないと思う。裏に写っている文字にも、個人情報は書かれていないから、悪用されることもないだらう。

岩波文庫の古い版の米川正夫訳のドストエーフスキイカラマーゾフの兄弟』には、たまに誤植がある。上に書いたやうに、たまに、「こう言つた」とか、「そうなのであらう」とか、古い表記が直されずに印刷されている。それがまた味わい深くて魅力的なんだけれども。)

まさにドストエフスキーを読んでいるときのぼくは努力的なんだよな。努力的にならないと読めないということは、自分の読解力に見合っていない読書になってしまっているのかも。いや、でもゾシマ長老の話とか、面白い部分も多かった。大江健三郎を読んでいるときのぼくはもっと努力的だ。

努力なしで読めるものを読んで、何の意味があるのか、と思っている部分があるのだと思う。でもこれは自分の理解できない本が世の中にたくさん存在するという事実を受け入れることができないことから来ているのだろう。少しでも、理解できない領域を狭くしたいと思っているのかもしれない。それを向上心と呼んでいいのだろうか。あらゆることを知ることはできないし、あらゆる分野の専門家になることはできない。一人の人間が知ることのできる範囲は限られたものだろう。このような現実的でない理想形成は、やはり病的なものと言わなければならないだろう。自分の頭が悪いということ、自分がものを知らないということが(そのように感じていることが)、自分の偏った非現実的な実現不可能な理想形成に影を落としているのだろう。でも頭が悪いということ、これを思い煩う必要があるのだろうか? きりがない話じゃないか。

ともあれ、努力的でないcomfortとしての読書(comfortableな読書。慣れない英語を使ってみた)を意識してすることが大切だと思った。できないことをできるようにするというだけの読書に偏ってしまうと、読む本が偏るし、楽しみを制限することにもなる。

例えば村上春樹は、文章は非常に読みやすいけれど、内容はけっして簡単ではない。村上春樹いわく、簡単な内容を難しく表現するのではなく、難しい内容を簡単にわかりやすく表現するのが大切なのだと。それがいい文章なのだと。それは一般的によく言われていることだ。でも、ぼくは村上春樹の文章は読みやすいと感じるけど、文章そのものの美しさをあまり感じない。読みやすくて、どんどん読めるし、内容に入り込むことができるし続きが気になって止まらなくなるけれど、でも文章そのものの芸術的な美しさみたいなもの、古い文章を読んでいるときに感じる格調の高さのような、匂いをあまり感じない。

そのように考えると、漱石なんかはまさに格調高さと読みやすさ、面白さ、ユーモアを、すべて具備していると思う。

自分の無知の範囲を狭めるための読書は、結局ゲーム感覚なんだよな。できないことをできるようにする、という目的で本を読むのは、人生に真剣な姿勢といえるのかどうか。

背伸びしているうちに背伸びでなくなることも多い気もする。

 

He's a real nowhere man,
sitting in his nowhere land,
making all his nowhere plans for nobody. (The Beatles "Nowhere Man")

 

村上春樹夏目漱石平野啓一郎木村敏あたりは何の苦もなく読める。無理がない。どのような著者の本だと、無理なく読めるのか、探る必要があると思った。読書そのものは、自分にとって楽しみだと思う。