障害の理解(社会復帰するさいに必要な自己分析)

自分の健康な部分を信じることも必要だと思った。ぼくは数年前から、自分にも健康な部分は残されているのではないかと考えた上で、どこからどこまでが健康で、また病的なのか、線引きをする作業を意識的に続けてきた。統合失調症と診断されたということは、精神的に病的な部分を多く持っているということだろう。けれども、病的といっても、健康な部分もあるはずだ。すべて病的ということはありえないだろう。まず、精神的に病的であるということがどういうことなのか、考える必要があった。(未だに、精神的に健康であることと、そうでないこととの違いがよくわかっていない。)

幸せに気づけることが大切なのだといって、幸せに気づくことができないことを非難するのはおかしい。幸せに気づくことができることが大切なのはいうまでもないことなのであって、それでも幸せに気づくことができないでいる人もいる。いま、この問題は衣食住の話ではなくて、共通感覚のことを念頭に置いて書いている。離人感のない、生き生きとした時間感覚、人間が生きていると感じられること、これこそ人間が感謝しなければならないことだろう。精神の健康――それは時間の健康、自己の健康とも言い換えられるかもしれない、それこそが幸せに気づくための条件の一つといえないか? 少なくとも、ぼくはそれを一度失ったと感じているから、それがいかに貴重なことであるのかがわかる。西田幾多郎は、衝突矛盾のあるところに精神があると言っている。

 

衝突矛盾のある処に精神あり、精神のある処には矛盾衝突がある。例えば我々の意志活動について見ても、動機の衝突のない時には無意識である、即ちいわゆる客観的自然に近いのである。しかし動機の衝突が著しくなるに従って意志が明瞭に意識せられ、自己の心なる者を自覚することができる。しからばどこよりこの体系の矛盾衝突が起るか、こは実在其物の性質より起るのである。かつていった様に、実在は一方において無限の衝突であると共に、一方においてまた無限の統一である。衝突は統一に欠くべからざる半面である。衝突に由って我々は更に一層大なる統一に進むのである。実在の統一作用なる我々の精神が自分を意識するのは、その統一が活動し居る時ではなく、この衝突の際においてである。(西田幾多郎善の研究』、岩波文庫、p120-121)

 

例えば太陽に譬えてみるに、太陽は無限なる光線を発射する、此の光線が何かの物質のために其の進路を妨げられた時始めて物が見える。丁度そのように我々の我も亦太陽の如きものであって、無限なる働きを其の本性とするものである、この我の無限なる働き其者が何者かに衝突した時に始めて物が見えるわけである、即ち物が意識に上るのである。フィヒテはこの衝突を Anstoss (障碍)と呼んでいる。 絶対我は何によっても限定されない絶対無限の働きである。しかし我が我自身を限定した時即ちアンストッスに出遇った時に、我のはたらきが我自身を見るのである。(西田幾多郎全集第十四巻、111頁)

 

話を戻そう。精神的に健康であるということがどういうことなのか、これは簡単な問題ではないと思う。最初は木村敏分裂病精神病理学の本を手に取ったけど、この問題は精神科の問題というよりも、哲学の領域の問題なのではないかと思った。現に、上に引用した西田幾多郎の文章は、精神の健康について考える上でも参考になる。(精神の健康という言葉、なんか響きが俗的というのか、ジャーナリスティックというのか、週刊誌的な響きに感じられる。気のせいだろうか。)

西田幾多郎とか、鈴木大拙エックハルトドストエフスキーなどを読んでいるうちに、精神の健康、不健康の境界線を引くことは、簡単なことではないことがわかってきた。線引きを行うことは、そんなに意味があることに思えなくなってきた。けれども、それはいま自分がモラトリアム的な生活を送っているからであって、これから社会復帰が近づけば、自分の病気について、考えなくてはならなくなるだろう。障害の理解というのか、そもそも、障害の理解というのは簡単ではない。どこからどこまでが障害なのか。線引きが難しい。渾然一体となっている。やる気がないのは病気のせいなのかどうか。(病気のせいだろう。)疲れやすいのは病気のせいだろう、このあたりはわかりやすい。