日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

四連休、自分の見ているものを言葉にするのは難しい

久し振りに投稿しよう。

 

今日から四連休。何も予定は入れていない。こういうのはとても久し振り。二日続けて休みというのもめったにないけど、四連休となると一年振りくらいかもしれない。

 

やはり用事がないのは素晴らしい。もちろん、人と会って遊ぶこともそれにはそれの楽しみがあるけど、一人で過ごす時間もとても大事だと思った。自分探しというのかな、ぼくはずっと自分探しをしているけれど。一人で過ごしていると、苦しむときもあるけど、でも好きで苦しんでいるんだから、これはこれで幸せだと思えるときが多い。

 

でも、このように言葉で説明するのは難しいな。自分の体験、自分の見ているものを言葉に置き換えることは難しい。自分がどのような人間なのか説明するということは、物語をでっちあげることだから、小説的な能力が必要となる。自分とは何か、自分は何をするべきなのか、そのような疑問に答えるためには、小説的な虚構をでっちあげる想像力が必要となる。

 

そういえば村上春樹ダンス・ダンス・ダンス』の冒頭のほうに、自己紹介の難しさについて書いてある。データが不足している、というやつ。データが不足しているため、回答不可能、取り消しキーを押してください、というようなやつ。小学生のとき、クラスの人たちを前にして自己紹介をする、そのさい周りの人たちを見ていると、自分のことを流暢に語る人が多い。この小説の主人公は、自己紹介が苦手で、自分について何が語れるのか、たった2分か3分の自己紹介で自分の何が語れるのか、そのように感じている。

 

自分はやさしい人間です、とか自分は積極的に行動するタイプです、というような自己申告にどれだけの信ぴょう性があるのか、主人公はそこに疑問を覚える。だから、なるべく客観的な事実と思われるもの、例えば「ぼくは犬を飼っています」とか「牡蠣フライが好きです」とか、そのようなこと。しかし、そのような客観的と思われることも、自分が改ざんしているのではないかと不安になる。嘘をついているのではないか、と。

 

しかし、それでも沈黙を選ぶのではなくて、主人公は語ろうと意志する。そういえば、村上春樹風の歌を聴け』の中でも、文明とは伝達である、伝達すべきものがなくなったとき、文明は終わる、というようなことが書いてある。小説の中の精神科医が言っていた。また、うろ覚えだけど、嘘と沈黙は悪であるというようなことも書いてあった。それにもかかわらず、我々はしばしば嘘をつき、黙りこんでしまう、と。しかし、我々が真実しか語らなくなったとしたら、真実の価値はなくなってしまうのかもしれない、とも。

 

ともあれ、他人に自己紹介をする機会がなくとも、自分が今日一日何をするか選び取るためには、自分が何をしたいのか、何が好きなのか、といったことについての理解が必要となる。それはとりもなおさず、自分とは何か、ということだ。自分の歴史を自分なりの言葉で理解することだ。もちろん、自分の歴史についての理解は、一つだけではない。このような問題は、フロイト精神分析にも関係するのかもしれない。フロイトはちゃんと読んだことがないので、あやふやだけども。

 

心理療法の立場には、確かhere and now を重視して、過去について言語的な理解を進めることをむしろ禁止するような立場もあった覚えがある。森田療法なんかそれに近いと思う。言語的に自分の過去を理解、整理することではなく、手を動かすことが大事なのだということだったと思う。ぼくは一時期森田療法を何年間か勉強実践していたけど、言語的な理解を退けるような考え方に疑問を持っていた。それは結局、あるがままとか全人間的な解決ではなく、つまり生きることではなく、治療ということが第一に考えられてしまっているのではないか、と思った。森田療法心理療法であって、哲学でも思想でもない、神経症の治療を目的としている。治ろうが治るまいがどちらでもいいことだ、という立場ではない。

 

ぼくは森田療法に疑問を持つようになってから、村上春樹の小説とかユング的な方向に向かっていったけれども、結局いまの病気に発展してしまった。

 

何の話をしていたんだっけ。

 

最近は澁澤龍彦の本を読んでいる。いま『黒魔術の手帖』を読んでいるけど、とても面白い。

 

風の歌を聴け』に、主人公が女の子に「嘘つき!」といわれて、いや、彼女は間違っている、僕は一つしか嘘をつかなかった、というような文章がある。