懸隔を感じない一体感って信用できるのかどうか

自分の見ている世界に満足してしまうことも多いけど、今までの人生でこの人の目で世界を見てみたい、と思える人に何人か出会った。ジブリの「耳をすませば」という映画のテーマはそれなんじゃないかとぼくは思ってる。自分以外の人の目で世界を見てみたいという気持ち。この人の目には世界はどのように映っているのだろうか、自分の見ている世界だけでは不十分なんじゃないか。自分の今までの人生はなんだったんだろう?自分は今まで、いったい何を見てきたのだろう?そのように思わせてくれる人と出会うことがたまにあるみたいだ。

 

埴谷雄高が、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』について言っていたと思うけど、「この小説の世界が現実であるならば、私の生きている世界は現実ではない。私の生きている世界が現実であるならば、この小説の世界は現実ではない。」というようなことを言っていたと思う。そう思わせられるほどに、埴谷雄高にとって、自分の生きている世界とドストエフスキーの小説世界との間には懸隔が感じられたのだと。

 

ぼくは今は、自分の見ている世界に満足していることが多い。それでいいのだろうか、という疑問もなくはない。中学一年の時にリッチー・ブラックモアというロックギタリストに出会って、ぼくは初めて自分以外の誰かになりたいと思った。それ以来、ぼくは、他人の目で世界を見てみたいと思って、自分を変えたいと思うことが多かったと思う。

 

自分の見ている世界と他人の見ている世界が違うのは当たり前のことだろう。でも、それが問題に感じられるのは、他人を理解したいと思ったときだろう。自分は自分、他人は他人、というふうに割り切って、距離を置いて考えることが難しくなるときがあるんじゃないか。自分の見ているものと他人の見ているものが違うのは当たり前のことだよ、と冷静に言い切ることができないときもあるんじゃないか。他人を理解したい、他人と同じ目で世界を見てみたい、と思うときがある。でもそう簡単に他人を理解できないし、同じ目で世界を見ることもできない。そのようなときに、孤独を感じる。

 

村上春樹ねじまき鳥クロニクル』という小説は、他人と共有できる痛みをテーマにしていると思う。そもそも、我々は他人の痛みを理解することはできない、というのは本当だろうか。登場人物の一人が、そのようなことを言っている。

 

高橋源一郎が、まったく理解を絶した物事については、わからないということすらいえないのだ、というようなことを言っていた。埴谷雄高ドストエフスキー体験は、強烈な「わからなさ」体験だったんじゃないかな。懸隔を感じた、と言っているけど、懸隔を感じることのない一体感って、信用できるのだろうか。