求めるかぎりにおいて得られる、原因結果同一の論、何故なしの生

ドラムの芳垣安洋が参加しているアルバムをいろいろ聴いてみたいと思って、iTunes に入っている曲で、彼が参加している曲だけを集めたプレイリストを作ったら意外と多く、107曲になった。ぼくは彼の参加しているアルバムはそんなに聴いていないから、これから聴いていきたいな。

 

最近、ぼくが、日本人で一番好きなギタリストは、内橋和久なんじゃないかと思った。日本人で一番好きなドラマーは林立夫だけども、でも芳垣安洋もとてもいいと思った。(そもそもこの二人は路線がまったく異なるので、比較はできないけれども。)となると当然、内橋和久、芳垣安洋ナスノミツルの三人によるバンド、アルタード・ステイツを聴こう、という話になる。アルタード・ステイツのアルバムは一枚だけ持っているけど、日本のプログレロックという感じで、ちょっとぴんと来ない。対して、芳垣安洋のリーダーの、ヴィンセント・アトミクスというバンドのアルバムは、とてもよかった。ベツニ・ナンモ・クレズマーも昔から聴いているけど、とてもいい。

 

アウトプットを通して得られるインプットがあるはずだ。ぼくもドラムは細々とでもいいから、続けていきたい。なんだかんだ言って、月に少なくとも四回くらいはスタジオに入って練習している。といっても家ではあまり練習していないのだけど。ぼくのドラムはまったく初歩で、今はクリックにジャストで合わせて、クリック音を消す練習をしている。フィルインというやつを入れると、クリックからずれる。

 

ぼくにとって、楽器を練習することは、自分の心の実在を信じることにほかならない。自分に心があるのかどうか。ぼくが楽器から十年ほど離れていたのは、自分の心は失われていたと確信していたからだ。心が失われた人が楽器をやったところで、意味はない、というそういう論法だった。しかし自分の心が失われているのかどうか、たとえ心が失われているのだとしても、楽器に取り組むことは必ずしも無意味とはならないのではないか。むしろ、楽器に取り組むことを通して、心が再び動き出すのを期待することもできるのではないか。

 

そもそも、心なるものを静止的に固定的なものとして捉えることは誤りだろう。今日少し読んだカントの『純粋理性批判』にも、真空を求める鳩の話があった。鳩は、空気の抵抗がなければ、もっとうまく飛べるだろう、と考えたのだと。心はどういったときに動き、存在するのか、ぼくにはそのあたりがあまりよくわかっていない。心は身体の外にあるとする説もある。心は静止的に固定的にあるのではなく、動きの中にある、とする考えもあるのだろう。それこそ西田幾多郎木村敏のいう述語の論理ということになる。ぼくには述語を体験する能力が失われているとずっと確信していた。だからこそドラムから十年も離れていた。でも、最近ドラムを再開して、自分にとってドラムをやることは自分の失われていたと信じていた述語性が、本当に失われているのかどうか、検証する作業にほかならないのだということに気づいた。

 

で、自分がドラムの演奏が下手なのは練習不足に由来するのであって、練習によって自分は上達するのではないか、と考えるようになった。以前は、自分にドラムができないのは、そもそも自分には述語性が失われ損傷されているから、根本的な意味で音楽を演奏することができないのだ、生命することができないのだ、というふうに結論づけていた。練習すれば改善するというような問題ではないのだ、そもそも生命の意志の問題なんだ、練習というのはあくまでも技術を鍛錬することであって、そもそも伝えたいことを持たない自分は、手段を洗練させようしたところで、無内容で寒々しい演奏しかできないだろう、とそのように考えていた。

 

しかし最近になって、伝えたいことを持っていないということがどうしてわかるのか、自分にもまだ何か伝えたい、他者と何か感情なり思想を共有したいという欲求を持っているのではないか、そういうふうに考えるようになった。そもそも、練習は技術の、手段の鍛錬であるのみならず、むしろ生きることそのものであるといえるんじゃないかと思うようになった。まず伝えたいことが自分の心の内側にあって、それを音楽という媒体、楽器という手段を用いて具現化、表現して、他人に伝えるという図式がそもそも間違っているのだと思うようになった。音楽という媒体、そうではない。音楽は手段ではない、目的そのものだ。音を出すことで感情を他者に伝えるのではない、音を出すことそのものが、自分の目的とする行為だ。そのように考えるようになった。

 

このような考え方をするようになったのは、エックハルト研究の田島照久の講義で、「原因結果同一の論」というのを聴いたことの影響もある。つまり、考えることで何かに到達するのではなく、考えることそのものがすでにみのりである、そのような話だった。私の花は実、という聖書の話。また、鈴木大拙の本にも、求めるかぎりにおいて得られる、というようなことが書いてあった。求めなければ、得られることはない。

 

エックハルトの思想に、なぜのない生という言葉もある。つまり、ぼくがドラムをやりたいと思うのは、ドラムによって感情を表現したいという言い表し方ではなく、ただドラムをやるということそのものを目的として、ただそれを欲するのだ、とこのように言い表したほうが正確なのではないか。なぜやるのか、それはただそれが好きだからだ、というほかないのではないか。ぼくがドラムを練習するのは、確かに上達を目的としているというふうにもいえるかもしれない、がその一方でドラムを練習するということそのものがすでに実りである、というふうにもいえるのではないか。

 

ともあれ、明日はスタジオに入って練習します。