無目的の目的、キルケゴール的な絶望、西田幾多郎の善、パウロ

ぼくは病気になってから感情の動きがとても弱くなったんだけど、少しはましになったのかもしれない、けれども普通の人と同じくらいとまではいかない。そもそも普通の人というのが、どれくらい感情動いているのか知らないけど。確認しようもない。だから、ぼくの感情の動き方は普通といっていいんじゃないか、と思い込んでいたけれども、でもやはり普通の健康な人はもっと感情動いているだろう。診断書には、全般的なエネルギー水準の低下、と書いてあった。そのとおりだろう。生きるための意志が弱くなっても、生きていかなければならない。

ぼくが自分を健康者に近いものと思い込もうとしているのは、あまりペシミズム、ニヒリズムに陥ることのないようにするための防衛の意味あいもあるのだと思う。自分を病者として強く意識すると、絶望するほかなくなるのではないか。しかし絶望的な状況にあるのだから、その状況を正視しないのはもっと絶望的で、悪いのではないか。それこそ、キルケゴール死に至る病のような話になってしまうわけで。

キルケゴールはちゃんと読んだわけではないけど、でも絶望的な状況について絶望的な本を読んでも、実際的の役には立たないのではないかと思って、キルケゴールを読むのは避けてきた。けれども、絶望的な状況を正視せず、自分が絶望していることを見まいとするこそ、絶望的なのではないか。それこそキルケゴール的な絶望なのではないか。絶望を正視すること、それによって絶望が軽くなるわけではないのかもしれないけど、でもやはりキルケゴールは読んだほうがいいと思った。

何よりも、キルケゴールを読んでいたとき、充実感を覚えて、楽しかった。人生は無意味なのであって、なので無意味な本を読むのが最も自己に誠実な生き方といえるのではないか。有意味を騙っている本を読むのではなく、無意味であるということを踏まえて書かれてある本をこそ読むべきなのではないか。無意味な行いは、意義を持たないのではない。無意味であるかいなか、そのことと無意義であるかどうかは、別の問題なのだろう。無目的の目的、一無位の真人、というのはそういうことなんじゃないか。

目的というものを据えてしまうと、その目的に最短距離でたどり着ける手段が、より価値のあるものなのだということになる。目的が存在するところに、意味が生まれる。しかし、その目的そのものが見当外れであった場合には、その目的にたどり着くための手段もすべて無意味なものとなる。そもそも、人生に目的というものを据えることが正しいことなのかどうか。ぼくは正しいとは思わない。なぜぼくが仕方なしに人生に目的を据えるのか、それはぼくが病者になってしまったという事実があるからだ。

ぼくの理論では、神経症の水準、つまり現実との生ける接触が保たれている状態では、宗教、芸術、つまり生命との接触が保たれているので、その人は自己実現の過程的に生きることが可能だといえる。いえる、というだけでなく、西田幾多郎的にいえば、自己実現の過程的に、自己の声、無意識の声に耳を傾けながら生きることは善そのものであり、個人にとって義務であるとすらいえる。

ぼくは自分を、精神病水準、つまり現実との生ける接触の失われた状態にあると考えている。つまり、宗教、芸術、つまり生命との接触が失われていると考えている。だからこそ、自己実現の過程的な生き方、無意識の声に耳を傾けるような全人間的な生き方を諦め、小手先的な、姑息な枝葉末節のやりくりに終始するような、目的的な生き方を妥協的に選択するようになったのだ。自己実現的な、セルフ・リアリゼーション的な全人間的な生き方は、不可能になったのだから、自分がなおかつこの社会の中で生きていく以上、気に入らなくても、自分の意に反する生き方でも、妥協するほかにない。

しかし、自分は宗教、あるいは生命との接触を完全に断たれているのだろうか。完全に断たれているとする仮定は正しいのだろうか、妥当だろうか。鈴木大拙などの本を読み、宗教、あるいは生命について知解することは、自分が宗教との接触を失っているという考えを検証する上で必要なことだ。ぼくは、自分がそのような接触を失っていると考えているけど、それはまちがっているかもしれない。思い込みかもしれない。

ぼくは根本的に間違った目的に向かって動いているのかもしれない。そもそも、目的を設定するという生き方は、ぼくには合わないのではないのか。しかし、生活するためには、食っていくためには、それも仕方のないことなのだろうか。そもそも、ぼくが生命との接触を失わなければ、ぼくは生命との接触、そのことだけを相手にしていればよかったので、それこそパウロの「もはやわれ生くるにあらず、キリストわれのうちにありて生くるなり」となる。しかし、ぼくは分断されたのだと考えている。