日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

糸の切れた凧、木村臨床哲学の成果、正常者とされている人の語彙で理解する

確か、カイヨワが『遊びと人間』の中で、糸の切れた凧について書いていた。確か、糸の切れた幻想などただの勝手な妄想に過ぎない、ということだったと思う。ぼくはこの糸の切れた凧についてしばしば考える。ぼくにとって糸とは何か。ぼくにはまだかろうじて切れていない糸があるのではないか。たしかに、ぼくが考え、話していること、例えばこのブログに書いているような内容は、一見支離滅裂、意味をなしていないように見えるかもしれない、けれどもぼくの中ではつながっている。そのつながっているという確信は何を根拠にしているのか。

ぼくはまず、ヴァイツゼッカーの言っている「根拠関係」というもの、つまりミンコフスキーのいう「現実との生ける接触」というものを喪失している。ぼくは生命との接触を断たれている。つまり、糸が切れている。しかし、何が救いなのだろうか。ぼくにとって救いなのは、ぼくがその生命との接触を断たれているという事実に違和感を覚え、苦痛に感じているということだ。異常を異常として違和感を覚え苦痛に感じるという構造は、異常なものとは言えないだろう。それは正常者の思考構造なのではないか、とぼくは思う。つまり、ぼくは自己の異常を異常として違和感を覚え苦痛に感じる、その意味で正常なのだと考えている。つまり、その部分の糸は切れていないのではないか。

我々が、自分に理解できない言説に触れたときに、それを難解な思想と捉えるか(つまり正常者によって語られたものとして捉えるか)、それともこれはきちがいによって語られた無価値な妄想だと捉えるか、何を根拠にしているのだろう。どこかに我々正常者とつながっている糸を見いだしているとき、我々は他者を、病者を理解するのではないか。

ぼくについていえば、ぼくは共通感覚に異常をきたしている。自己と自己が一致していない、そういう意味で分裂している。自己が二つに分裂していて、意識と無意識とが調和していない。垂直の意味で、意識と深いところにある意識との間に断層、亀裂がある。そして同時に自己と他者、あるいは外界とのあいだ、つまり水平の意味で、亀裂がある。二重の仕方で引き裂かれている。この表現の仕方は、レインに倣っている。

共通感覚の異常に違和感を覚えこれを苦痛に感じている。ぼくは異常である、が異常であることに違和感を覚え、苦痛を覚える、その意味でぼくは正常であると感じている。正常であると感じているというか、正常であると見なされている人、自分を正常であると信じている人は、現実との接点を保っているのだと思う。その現実との接点とは何か。それこそが、現実との生ける接触、あるいは根拠関係なのだと思う。

しかし、ぼくが自分をある意味において正常だと信じることができるのは、木村敏西田幾多郎といった高度に分節化された思想の支えがあって初めてできることだ。彼らが、特に木村敏が、一般に異常とみなされる人たちを、つまり分裂病の人たちを理解しようと努力してきたから、それを土台としてぼくは自分と、いわゆる正常者との接点をわずかにでも見いだすことができるのかもしれない。木村敏は、一般に異常とみなされる人たちを理解しようと、つまり我々正常者とつうじるものをみいだそうと努力してきたのだと思う。その成果が、木村敏臨床哲学なのだと思う。正常者とみなされている人とたちと、異常者とみなされている人たちとのあいだには、何かつながりがあるのではないか、切れていない糸があるのではないか。

ともあれ、ぼくは自分の異常な体験を、正常とされている人たちと共有できることばで理解しようと努めてきた。異常な体験を異常なことばで考え表現するのはなく、正常者の語彙ではぼくの異常な体験はどのようにかんがえられるのか。ぼくに必要なのは、正常者とみなされている人の語彙である。

ぼくが山は山であり山でない、という論理構造で話すときも、ぼくは禅の思想を念頭に置いている(般若即非の論理、コインキデンチア・オッポシトルム)、つまり自分自身の言葉で語ることを避けている。正常とされる人が語る言葉で、自分の異常な体験を理解し、語る、それがぼくにとっての課題であり、目標である。

村上春樹が、人はみな病んでいるという考えが、自分の根本的な思想だというようなことを言っていた。つまり、人はみな多かれ少なかれ病んでいて、異常者である、ということ。