人間としてよりよく生きるために必要な契機

動悸がする。心拍が耳元でうるさく聞こえる感じ。最近は頭痛はほとんどなくなった。一か月前は頭痛、動悸、吐き気、左手・左足のしびれが気になって、これは脳卒中の前兆なんじゃないかとも思ったけど、様子見を続けている。

今日は午前中にフロイトを少し拾い読みした。自分のことが説明されていると感じる部分がいくつかあった。ぼくは主治医からは統合失調症と診断されているけど、神経症的な部分もあるということだろうか。十年前に、正確な病名は統合失調症神経症の中間だと言われた。診断書には統合失調症と書くけれど、これは便宜的なものだと言っていた。

また、フロイトなど精神分析の本を読むことは、自分にとってよくないことなんじゃないかとも思う。治すことを意識すると悪循環に陥って、得るところも少ないような気がする。森田療法なんかでも、治すことよりも、生活を先にしてください、というような言葉がある。本を読むにしても、禅とか宗教の本だと、生活に直結しているように思うから、安全だろうと思う。西谷啓治も、「日常的といっても形而上的と別にあるわけではない。それが別でないというのが、文学や哲学の立場ではないかね」ということを言っている。

ぼくが文学や哲学の本を読むとき、ただ美しいものに触れたいから読む。実用的な何かを期待して読むことはない、単純な楽しみとして読む。すぐに実行に移せるようなハウツーを期待して読むことはない。これはぼくが自分の病気を治すことに関心を持っていないからでもあるだろう。治せる病気であるならば、治すことにも関心を持つかもしれないけれど、ぼくの病気は治せるものではないと思う。また、治せる病気であるにしても、どのみち治そうということばかりに専心していると、悪循環的に症状も強化され、生活の質も下がるだろうと思う。

大昔、一時期は本を読むということ自体よくないことなんじゃないかと考えて、本を読むのを禁止したときもあった。別の時期には、小説はいいけど哲学、宗教の本は禁止、というふうにしていたときもあった。ラッセル幸福論という本があって、その本のなかに「外界へと注意関心を向けることが、幸福の条件である」というようなことが書いてあるのを読み、内面に注意を向けてはいけないんだと思った時期があった。でもそれはぼくにとっては、表面的なやりくりにしか感じられなかった。不自然な生き方にしかならなかった。

それで、内面へと注意を徹底的に向けることで、内面の奥底に外界へと通じる道を見いだせるんじゃないかと考えるようになった。そのように開き直ることができるようになったのが、転機だったのだと思う。そのあと、鈴木大拙などの本に出会った。自分の神経症を治そうと努めるのではなく、自分の問題を自分ひとりの問題と捉えることなく、もっと普遍的な問題と捉えられるようになった。

自分の症状ばかりに注意を向けていたときと比べれば、自分は回復しているのかもしれない。異常に疲れやすいとか、症状は依然としてあるのだけど、症状の受け取り方が変わったと思う。ドストエフスキーとか西田幾多郎鈴木大拙井筒俊彦神谷美恵子などを読んで、自分の問題はたんなる病気として捉えて退けるべきものではなく、人間としてよりよく生きるために必要な、契機なのだと考えられるようになった。

例えば、ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』の中で、ゾシマ長老が、「また人生はお前に数々の不幸を齎すけれど、その不幸によってお前は幸福になることも出来れば、人生を祝福することも出来るし、また他の者にも祝福させることが出来るであろう――それが何より大切なのじゃ。」(米川正夫訳)ということを言っている。

つまり、不幸と幸福とが別々に離れたところにあるのではなく、不幸の中に幸福を見いだすことができる、という人生観。ぼくの病気、あるいは人生問題にしても同じことなのかもしれない。ぼくの病気が消失したところに幸福が見つかるということではなく、ぼくは病気の中に幸福を見いだすことができるかもしれない、ということ。ぼくが人生の中に喜びを見いだすとして、その人生とは病気と切り離されたものではありえない。

また、ゾシマ長老はこういうことも言っている。「お前にはキリストがついておられる。気をつけてキリストを守りなさい、そうすればキリストもお前を守って下さるであろう! 世間へ出たら大きな悲しみを見るであろうが、その悲しみの中にも幸福でおるじゃろう。これがわしの遺言じゃ。悲しみの中に幸福を求めるがよい。働け、撓みなく働け。」

悲しみの中に幸福を求めるということ、この言葉にも、ゾシマ長老の悲しみと幸福は別々に離れたところにあるのではない、という思想があらわれている。