日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

症状、薬に頼る必要がありそう

相変わらず、本は『カラマーゾフの兄弟』を読んでいる。今は米川正夫訳の岩波文庫版で読んでいる。第二巻の好きな部分を拾い読みしている。

この小説で好きな部分は第二巻に集中している。第五篇「Pro et Contra」、第六篇「ロシアの僧侶」。今、イワンの大審問官を読んでいる。この小説は四回通読したけど、全体の物語の筋書き、構成は未だに理解できていない。後半の部分はおぼろげにしか、断片的にしか覚えていない。イワンの大審問官で語られる思想とゾシマ長老の思想との違いや共通点を見つけたい。イワンが「神はない」と語り、それに対してゾシマ長老が「神はある」と反論しているというような単純な構図ではないように思う。イワンの思想はただの無神論ではないように思う。(もっとも、無神論というのがどういうものなのか、ぼくはよく知らないのだけど)

例えば、ゾシマ長老は人間同士の間の罪悪の連帯関係ということについて、説いている。若きゾシマはその思想を若くして肺病で死んだ兄マルケールから学んだ。イワンも、人間同士の間の罪悪の連帯関係については認める、と言っている。ただ、それは大人同士の話で、子供との間に罪悪の連帯関係はない、と言っている。

つまり、イワンとゾシマの思想は単純に対極にあるとは言えないのだろう。ゾシマは、悦びなしに生きていくことはできない、と言った。この小説全体を読んでいて印象に残ったのは、苦痛だとか苦悩ということは悦びだとか幸福の反対の極にあるものではない、ということ。ゾシマ長老はアリョーシャに向かって、「悲しみの中に幸福を求めるがよい」というようなことを言っている。また、「これから人生はお前に数々の不幸をもたらすだろうけど、その不幸によってお前は幸福になることもできるし、人生を祝福することもできるし、また他の人にも祝福させることができる」というようなことを言っている。

イワンにしても、苦悩を愛しているように思う。イワンは、調和など欲しくはない、と言っている。人類に対する愛のために、欲しくはないのだと。

小説の中で、イワンの思想に対する反論としてゾシマ長老の思想が置かれているという話を聞いたことがあるけど、わかりやすい黒に対する白というような反論には見えない。イワンとゾシマは結局同じようなことを言っているように見える。それだけ、ぼくの読みがまだ浅いのだろうけど、結局のところ、イワンとゾシマの思想の違いは何なのか、そこに注意して読んでいきたい。イワンの言っていることにも共感できるし、ゾシマの言っていることにも共感できる。

話は変わって、例の、世界がちかちか点滅していてうるさいとか、目が見えているのに見えない感じがするとか、胸の中がざわざわすーすーしていて息がしづらい感じがするだとか、世界が自分の身体をちくちくと刺してくるような苦痛、といった症状が気になるときが多いので、最近主治医から出された頓服をたまに飲むようになった。今日も抗不安薬セルシン抗精神病薬リスパダールの両方を飲んでみた。副作用を感じることはあっても、症状が軽減したと感じたことはないけど、これからは薬で症状をコントロールできればと思っている。

今まで、自分の症状は精神科的な症状であるというよりも、誰もが経験する苦痛なのではないか、と考えるときが多かった。つまり活動量が多ければ、身体的、精神的に疲れるのは誰もが経験することだと考えたり、退屈がつらく感じられるのは誰もが多かれ少なかれ経験することだ、とか。

ただ、疲れやすいといっても、ぼくの場合その程度があまりにも甚だしいように思う。また、退屈感についても、精神病の人も含め、自分の周りの人を見ているとくつろいでいるように見えることが多い。時間の感じ方について、一秒が一分がつらいと感じているように見える人に出会ったことがない。

しかし、ぼくの場合、自室のパソコンに向かっていると、一秒がつらいというような感じはほとんど感じないで済むように思う。ぼくの症状は、状況によって左右されることが多いように思う。だからこそ、状況だとか環境の変化によって症状が強くなったり弱くなったりするからこそ、自分の症状はじつは精神科の症状ではなく、たんなる、誰もが経験している苦痛に過ぎないのではないか、と考えたりもする。そして、自分はたいして病状が重くもないのに、重病であるふりをしているのではないか、と罪悪感だとか申し訳なさを感じたりもする。

つまり、自分は働きさえすれば、症状が軽くなるのではないかと期待したりもする。今の病気、統合失調症を発症する前の数年間も、すでに世界が痛いという症状に苦しんでいて、そして自分のこの症状は自分の生き方の問題なのだと考えていた。そして、大学の授業に休まずに出席し、アルバイトをする生活が、最も自分にとって自然な生活であって、自分の生の欲望を発揮できている自己調和的な生活なのだろう、と考えていた。しかし、やがてそういう理論に則った生活を続けることにも限界を感じるようになった。学校に通い続けていても、生きている実感が感じられないままだったり、まったくの無感覚の中を生きているときも多かった。

アルバイトを始めさえすれば、自分の症状はなくなるのではないか、と考えるのは危険なのではないか、そのような考えを今は持っている。ふたを開けてみなければわからないことだから、実際に仕事を始めてみて、かえって症状が悪化した場合、どうするのか。昔、アルバイトを一週間くらいで無断でやめたことが二度ほどある。

自分の考えのどこからどこまでが妄想なのか、わからない。世界が自分の身体をちくちくと刺してくるような痛みを感じるというのは、普通の多くの人は経験していないと思う。それを、働きさえすれば、世界の痛みもなくなるのでは、と期待するのは、もしかしたら、妄想というのか、間違った考えかもしれない。主治医は、薬を増やす提案をしている。ぼくも最近、薬に頼るべきなんじゃないか、と考えるようになってきた。

そもそも、自分が統合失調症なのかどうかも、わからない。診断書には統合失調症と書いてあるけど、昔主治医に訊いたところ、診断書には便宜的に統合失調症と書いているけど、実際は違う病名だ、というようなことを言われた。最初に通ったデイケアの医師には、双極性障害と言われた。ほかにも、医師ではない何人かの人から「統合失調症には見えない」というようなことを言われた。

結局、自分の病名はなんなのだろうか。近いうちに主治医に訊いてみる手もあるけど。妄想もあったし、また、自分の妄想が妄想であることに気づいたのも、ここ最近のことだし、統合失調症であることを裏づけるような事実がいくつもある。