日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

自分を大きく見せようとしないこと

このブログの過去の記事を少し見た。数年前の記事だけども、木村敏について感想を書いている記事。なんというか自分の頭の悪さを直視することができないから、木村敏の理論についての感想をブログに書くことで、自分は人並み以上の知力を持っているのだと言い張りたいのだろうと思った。虚勢を張っている印象。木村敏とか学問的な本を、自分は人並み以上の知力を持っているのだと言い張るための道具にしてしまっている。これは大事な発見かも。自分の問題の一つだと思う。自分は、自分の知力が低いことをとても気にしているのだと思う。そして、それを受け入れることができていない。自分にとっての課題は、等身大の自分を受け入れることだろうと思った。

その木村敏について感想を書いている記事は、六年前のものだけども、まあ確かに六年も経てば、考えも変わって当然なのかも。自分の愚かさをいくらかでも自覚できるようになったのは、進歩と考えていいだろう。

ぼくは小学校のときから、勉強ができなかった。勉強に興味を持っていなかった。親も勉強しろとは言わなかった。ただ、中学一年のときにエレキギターに出会った。リッチー・ブラックモアというギタリストに出会って、初めて夢中になれるものを見つけた。その出会いは、自分の人生において、重大な意義ある出来事の一つだったと思う。

そういうわけで、音楽は自分にとって大事だと思う。

その一方で、勉強ができる人だとか知的と感じられる人に対して憧れる。それは自分にないものに憧れる感覚だろう。自分が知的でないから、知的な人に憧れるのだろう。

ここ何年か、ドストエフスキーに関心を持っている。ドストエフスキーについてブログなどで感想を書くことが、自分を大きく見せるための手段となっていないか、不安を感じる。自分を大きく見せることが最大の目的になっていないかどうか。好きなものについて、自分を大きく見せることを目的とせずに、ただ好きだという気持ちを表現したいという目的で語ることができたらいいと思う。

今は村上春樹回転木馬のデッド・ヒート』という本を読み直している。この短編集の文体はとても好き。村上春樹の本の中でも特に好きなもののひとつだ。村上春樹の小説についていうと、好きだと感じられる文体の作品もあれば、そうでないものもある。例えば『1Q84』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の二つの小説の文体は好みではない。それでも、内容は面白いと思うし、この二つの小説はそれぞれ四回くらい通読した。長編でいうと、『海辺のカフカ』とか『羊をめぐる冒険』の文体は好き。

村上春樹の小説も、最近ちゃんと読んでいないので、一つひとつ読み直していきたい。