日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

2014年07月08日(火) 14時22分21秒

「本書で取り扱えなかった諸問題のうち、現在私の念頭にあるのは、直接性の病理としての「境界例」(borderline case)という主題である。元来は分裂病と近縁の病態として考えられたこの特異的な自己同一性の障害は、現在の私の考えでは、明らかに直接性の病理とより深く関係している。」(木村敏『直接性の病理』、p35)

 

ぼくは統合失調症になる前の一時期、境界例に興味を持っていた。また、自分は境界例なのかもしれないと疑っていた。明らかに、普通の神経症よりも複雑で重いものになっていると思っていたし、かと言って幻聴などがあるわけではないから、分裂病だとも思わなかった。となると、境界例だろう、と。それだけではなく、自分のイントラ・フェストゥム的、つまり現在しか存在しないというような時間感覚が、まさに境界例的なんじゃないか、と考えていたのだと思う。もっとも、その当時は、木村敏に出会っていなかったので、イントラ・フェストゥムなんていう言葉は知らなかった。

 

境界例というと、爆発的な怒りだとか、他人を操作する傾向だとか、分離不安だとか、情緒不安定とか、自己イメージが定まらないこととかが主要な特徴としてあげられるけれど、ぼくは怒りというか不満はつねに抱えていたし、情緒不安定、自己イメージが定まらないということはあったけれど、分離不安はなかったし、自傷もしなかったので、一般的な境界例のイメージとは違っていたと思う。それなのになぜ自分を境界例的だと思ったのかというと、やはり現在しか存在しないというような時間感覚、あと情緒不安定さがあったからなのだと思う。

 

ぼくは、境界例に、純なるものを見ていた。人間なるものを研究するためには、境界例というものに対する理解が必要不可欠だとすら思っていた。純なるものとは、イントラ・フェストゥム的、現在しか存在しないという時間感覚のことだと思う。木村敏によれば、イントラ・フェストゥム的な病は、古来から、聖なる病とされてきた。ぼくが、人間なるものを研究するためには、境界例に対する理解が必要不可欠と言ったのは、イントラ・フェストゥム的な病について考えることが、人間を理解するために必要不可欠という謂いである。

 

イントラ・フェストゥム的な病は、ぼくにとって最も関心のあるテーマの一つ。いま取り組んでいる木村敏の『直接性の病理』という本は、イントラ・フェストゥムを主題に取り扱っているので、おもしろく読めるのではないか、と期待している。

 

ぼくは、統合失調症になる前、境界例だったというよりは、イントラ・フェストゥム的な病にあったのだ、と言ったほうが正確だろう。じっさい、主治医は、ぼくは境界例ではなかった、と言っている。いまも、境界例ではないと。正確な病名は、「統合失調症と神経症の中間」であるらしい。イントラ・フェストゥム的な特徴は、てんかんだとか、境界例で見られるらしいけれど、ぼくはてんかんではなかっただろうし、となると境界例にどちらかというと近い状態にあったのだと思う。厳密にはそうでないにしても。

 

発達障害アスペルガー症候群)的な特徴もあるし、病名も「統合失調症と神経症の中間」だし、かつてイントラ・フェストゥム的な状態にあったことを考えると、自分は鵺的というか、どの疾患名にも当てはまらない、そういう意味で「境界人」的だと思う。いや、いまはわりと、統合失調症にいちばん近いと言えるし、鑑別的にはわかりやすいほうだ。統合失調症を発症する前は、まさに「境界人」的だったと思う。どんな病名にも当てはまらない。そんなところも、境界例的だと思っていた。

 

トスカニーニ、NBCによる、シューマン交響曲第3番を、ずっと繰り返し聴いている。交響曲というジャンルが、ぼくにはよくわからなくて、なにを聴いてもだいたい同じに聞こえてしまう。ピアノ協奏曲だとそんなことはなくて、みんな違って聞こえるんだけど。でも、このシューマン交響曲は、とても聴いていて心地いい。繰り返し聴いているうちに、ほかの作曲家の交響曲との違いが、わかるようになるかな。