日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

自分がどのような形で世界と関わりつながっているのか

最近は算数の勉強を中心にやっていた。本はほとんど読んでいない。何をして過ごしているのか、おぼろげにしか思い出せない。読書から離れていると自分がどんな物事に心を動かされるのか忘れていく。それこそ自己喪失みたいなもので、日々はぼんやりとしていく。本を開いて少し読んでも、内容に関心を持てない。一ページも読まずに本を閉じてしまうので、もう少し忍耐強く読み続ければおもしろいと感じるのかもしれない。けれども、じっと読書に集中するだけのエネルギーがない。

昨日は算数の計算問題を六時間ほど解き続けていた。とりあえず集中して取り組むことはできたけど、自分が自分から遠ざかっているのではないかという不安を感じることもある。問題は、自分が自分から遠ざかっているという自己喪失の感じを感じないことなのではないか。つまり、日々がただぼんやりと過ぎていく。内省することもなく、ただ日々は過ぎていく。ただ時間が過ぎていけばいいというものではない。算数の勉強をすることは、集中して取り組めているという理由から、それなりに楽しんでいるのではないかと思うことがある。でもやはり、疑問が出てくるということは、本当に好きなわけではないのかもしれない。人生にはもっと心を躍らせるもの、豊かなものがあるはずなのだと思う。

自分は何が好きなのだろう。自分がなぜ読書ということに執着するのか、なぜ読書から離れていると不安になるのか。それはやはり、本から離れていると自己喪失するからだろう。言い換えると、本の中に自己を発見することがあるということだろう。自分の心を動かすものが本の中にあるのだろう。それが手がかりとして感じられるのだろう。

長い間自己喪失が続いていると、自分は自己喪失しているという自覚もなくなる。自己調和とは、自己喪失を忘れることではない。自己喪失しているという事実を隠蔽して忘れてしまうことではない。自己調和とは、自己喪失の感じを忘れることなく、なされるものでなくてはならない。

ぼくが求めているのは、楽しい生活でも楽な生活でもなく、調和した生活だと思う。確かに、苦痛の多い日常であることは確かだから、苦痛少なく生きていたいといつも思っている。それでも、その苦痛は調和していないことから生じているものだから、ただたんに楽しい生活を目指したり、自分の苦痛や不安を隠蔽して忘れてしまおうとすることでは、本当の意味での幸せな生活を送ることはできないだろう。

苦痛はあって当然だと思うし、それが自然だと思う。苦痛も楽も双方含めての調和だと思う。自分の苦痛なり不安と向き合うことが必要なんじゃないか。

いま、久し振りに鈴木大拙の本を何冊か引っ張り出してきた。村上春樹海辺のカフカ』にも、一度開けた入口は閉めなくてはならない、という隠喩が出てくる。ぼくは高校生のころに神経症になり、その解決法として森田療法に出会った。森田の勉強、実践を通して、仏教の世界観に触れていった。つまり一度出会ったものとの関係を断つことはできない。ぼくは森田療法の考え、その後出会った鈴木大拙の思想から多くの影響を受けたから、鈴木大拙などから逃げ続けることはできないし、それらから逃げることは不自然なのだろう。最近算数の勉強を中心とした生活を送っていて不安を感じるのも、やはり鈴木大拙の本から離れていたことと関係があるだろう。やはり宗教、哲学の勉強を抜きにした生活というのは、自分には耐え難いし、それは幸福な生活ではない。

自分がどのような形で世界と関わりつながっているのか、そのことを知ろうと努めることが必要だと思っているし、それは宗教ということとも深いつながりがあることだと思う。