共通感覚がわからない

雨が降っている。しとしとという音を聞いていて、昔、ジブリ映画『耳をすませば』を見ていたときのことを思い出した。この雨の音を聞いていて、『耳をすませば』をそこに感じとり、大貫妙子の『東京日和』をそこに見、荒井由実の『ひこうき雲』をそこに見る。そうした全体的な感じが、詩情、ポエジーというものではないか。音楽は全体としてある。ぼくは昔、アイコの音楽と向き合っていた数年間のうちのあるときに、アイコの音楽のなかに、マイルス・デイヴィスオーネット・コールマンも生きている、と思った。アイコを聴いているそのときに、自分は同時にマイルスも聴いているのだ、ということに気づいた。そうした全体性を感じとる感受性というか能力が、危機に陥っているのだと思った。アイコの音楽のなかにマイルスを見る、というのはコモンセンス、共通感覚と言って、なんら変わったことではないのだけど、ぼくにはこうした当たり前のこと、殊に共通感覚に関することが、まったくと言ってよいほど、わからない。

 

たとえば、ぼくは日常的に、『耳をすませば』を忘れている。村上春樹の『風の歌を聴け』を、忘れている。パット・メセニー・グループの「ザ・サーチ」という曲を忘れている。ブルース・スプリングスティーンの「サンダー・ロード」を忘れている。アイコの「カブトムシ」を忘れている。空気の匂いをかぎ、そこにいままでに見てきたさまざまなものを同時的に見るということ。共通感覚。これは、『耳をすませば』的な状況だな、とか、この空は「ザ・サーチ」だな、とか、そういうふうに連想というか、さまざまな記憶と慣れ合うことがない。すぐに忘れる。いま現在なにを覚えているというのか。上に挙げたアニメーションやら小説やら音楽のストーリーや、音符はほとんど覚えている。しかし、空気感や雰囲気は、まったく思い出せないと言っていい。思い出せないというか、いまこれらの作品に触れたところで、昔そこに見ていたものを見ることはできない。

 

それにしても、あまりにもひどい文章だな。連合弛緩的というのか、文意不明瞭。技術的な問題というよりも、これを伝えたい、という強い思いがないことが原因だと思う。生活が問題ということ。ちゃんと生きているかどうか。ぼくはもうとても投げやりになっているし、ちゃんと生きていない。これはもう緩慢な自殺なんじゃないかという気もするけど、他にどうしようもない。デイケアには週三日から四日通っている。デイケアに通い始める前の四年間と比べればましなのか。やれることはやっていると思う。でも、ちゃんと生きてはいない。感情体験の質の問題。感情機能の回復は、時間の経過による自然軽快を期待するしかない。でも、不可能なことを望み続けることも、なかなかしんどい。自分以外の誰かから合格点をもらうために生きているのではない。最も悪いのは、他人を操作する人間だ。

 

ちょっとこれではあんまりなので、ちゃんとしたことも書こう。というか、上に書いたものを全部消してもいいような気もしてきた。無意味な文章だ。今日はデイケアだった。最近は、月曜火曜木曜金曜の週四日通っている。まあ以前と比べて進歩していると言っていいのだろう。そういうことにしておこう。連合弛緩のリハビリのために五年くらい前からブログを書き始めたというのに、まったく文章力は上がっていないようにも思う。