人工的な言語

そういうふうに日本の近代文学、あるいは日本の学問には、実際にはロシア語なり英語なりフランス語なりの基礎がある。そしてそれが百五十年間続く中で、われわれのように翻訳をしてきた人が寄ってたかって作りあげてきた、翻訳と混ざった日本語ができたわけです。その変な言葉を現代の日本語だと言いくるめて、それでみんなに教育を施して、「外国語で勉強しなくても、日本語だけで勉強ができますよ」と言える状況を、フィクションとして作ってきた。

 

だから、明治以降の日本にいる限り、使う日本語自体が実際はハイブリッドなものにならざるを得ない。そういう、英語やフランス語が奇妙に入り混じった異様な言葉を作り、その言葉を中国や朝鮮半島の人々が取り込んで、また異様な現代中国語や現代朝鮮語などを生み出していったという現実があるわけです。しかしながらわれわれには、世界を自分が生まれた後と生まれる前とに分けて考える傾向があって、生まれてから学んだ変な日本語を、生まれる前からずっと続いている本来の純粋な日本語だと思っている。実際はそうではなく、非常にハイブリッドなものなのに。だからこそ現代の日本の社会は、日本語を使うときに、人工的な言語で喋っていることを忘れられるようにできている。(都甲幸治)、(沼野充義『やっぱり世界は文学でできている』、p137-138)