記憶力と「あいだ」の感覚

記憶力ない。頭がクルクルパーになっている。そのへんの小学生にも劣る知能。知能というのもあるし、エラン・ヴィタールのもんだいだな。生命的なもの。奥からわきあがってくるようなもの。解体症状。ぼくの普段話している言葉はとてもひどくて、いわゆる言葉のサラダにちかい。と思っている。

 

言葉が崩れているのをなんとかリハビリしようと思って、本はなるべくよむようにしているけど、ああそうだ、ブログを書くこともリハビリの一環だ、まったくリハビリの用を果たしていないようにおもう。

 

デイケアでふだん作業をしていても、頭がぶっこわれているので、ぜんぜん作業の流れをおぼえられない。これからは、メモを取りまくることにする。そうするしかない。ほかの通所者は、メモを取らないでもおぼえられるらしいけど、ぼくのばあいはメモを取らないとだめだ、メモを取ることについては消極的であるとは言っていられない、そうだ、メモを取ることにふみきろう。

 

もともとの、病気になる前の知能水準はほとんど問題にならないことに、あらためて気づいた。病気の程度によるのだ。もともとそれなりに高い知能水準にあっても、病気であたまがぶっこわれれば、もうそいつはクルクルパーだ。そのへんの小学生にも劣る。健康者って、あるいは病気であたまがぶっこわれていない人って、すごい知能を持っているよ。それがふつうなんだけど、ぼくからみると、天才だよ。なんてったって、言葉が流暢だもんな。言葉が流暢だということは、現実認識が流暢で、流れによどみ、つっかえがないということだ。この流れをエラン・ヴィタールというんじゃなかったっけ、ごめん、エラン・ヴィタールという言葉のいみを取り違えているかもしれない。アンリ・ベルクソンのことばだったよね、たしか。たぶん、そんなに外れてはいないだろう。生命的な流れ、つまり、一部の統合失調症患者が失っているところの、自然さ、奥からわきだしてくるような、生命的なもの。

 

ようするに、ぼくは、自分は流暢さ、自然さを失っていて、自分の現実認識はちぐはぐで見当違いであると感じていて、そうなると、行動もちぐはぐで見当違いになる。木村敏の言い方にしたがえば、「あいだ」の障害だ、点ではない、点と点のあいだの線の問題だろう。間(ま)と言ってもいい、これが機能していないのだ。これを、ミンコフスキーは「現実との生ける接触の喪失」と言っている。ミンコフスキーは、ベルグソンのエラン・ヴィタールということばを使って、統合失調症のこうした問題を説明している。エラン・ヴィタールの問題だ。そんなわけで、ぼくはエラン・ヴィタールということばは、自然な、奥からわきでてくるような、生命的な流れを指している、というふうに理解している。

 

たいせつなのは、知能水準ではない、こうしたエラン・ヴィタール的なもの、つまり「あいだ」なのだ。楽器の演奏を、とくに即興演奏をしたことがある人なら、たいせつなのは「あいだ」、あるいは間(ま)であるということはよくわかることだろう。知能などいくらあっても、こうした「あいだ」の感覚がぶっこわれていれば、知能は知能として機能しない、知能は「あいだ」と不可分の関係にあり、「あいだ」のないところに知能はない。「あいだ」の感覚がぶっこわれていても、知能は知能としての役割を果たすのだろうか、果たさないとすれば、それはなぜなのか、知能と「あいだ」の感覚とのあいだにはどのような関係があるのだろうか! なぜこれらは密接不可分な関係にあるのか、それを追求したのが、木村敏だったのではないか。というか、これが木村敏の取り上げてきたテーマのひとつだったとおもう。まちがっているかな。いや、そんなに外れてはいないだろう。

 

たいせつなの知能水準ではなく、「あいだ」なのだといっても、それでは救いがないようにもおもう。まあ、じっさいに救いがないのだから仕方がないだろう。嘘を言っても仕方あるまい。それでも、生きていかなければならないことは当然だ。木村敏の精神病理学で、病人を救うことはできないのかもしれない。しかし、少なくとも、病人がどのような状況に置かれているのかを理解する助けにはなるだろう。